第四十六話


 日が昇る直前になると、静かな空間に音が入ってくるため、この時間が一日の中でも好きだった。

 日が昇る前に起きていた僕は、雨戸が開く音を耳にしながら、眠ったままのお力のそばでたく調ととのえていた。

 昨夜は長居をしてしまったこともあり、仕方なく泊まることになってしまったのだが、僕にとって昨夜の宿泊は、ひどくつらいものであった。

 お力を憐れんだわけではないが、過去の身の上話というのは気持ちを沈ませるため、初めて見た彼女の涙に胸が苦しくなった。

 少しはいた言葉をかけようと「しゅっを望むな」とは言ったが、彼女はあまり嬉しそうではなかったように見えたので、上手くいかなかったようだ。

 気の利いたことが言えないのは昔からで、同僚にも散々な言われようだった。

 それでも、どうにかやってはきたが、僕のようなかたぶつが色男のようにうなど、とうてい無理な話だとわかっていた。

 な男が馬鹿になることはあっても、おんなごころどんかんな男が色男になど、そう簡単に、なれはしないのだから。

 げたにかけられたおりを手に取り、音を立てずに素早くると、お力の香りが微かにかおる。

 彼女はおこうか香水か、何か香り付けになるものを使っているようで、会うたびに同じ香りがすることには気がついていた。

 それが何の香りなのかを彼女には聞かず、比較的仲の良い仕事の同僚に、それとなく尋ねてみたところ、「お前はそういうところで気が利かないんだよ」と怒られたのは、つい最近の話だ。

 同僚には、「気に入っている女の香りが好みなんだ。何の香りなのか知りたいのだが、どうやって調べればいいのだろう?」と聞いただけなのに、「本人以外に聞くような男が知ったところで、ようちょうぶつにしかならないだろう」と、冷めた目で返されたことには、納得できなかった。

 何が悪かったのかはよく分からないが、「ことは積極的に使え」とも言われたため、今度会ったら言おうと決めていたのに、が悪かったようだ。

 約束を守ろうと急いで駆けつけた僕に、彼女は最後まで、心を開いてはくれなかった。

 それどころか、拒絶されたように見えたのは、気のせいだったのだろうか。

 今回は仕方がないと諦めるが、次こそは距離を縮めようと思った僕は運が悪いようだ。

 お力が眠った後に連絡があり、夜明けに仕事が入ってしまったのだ。

 事前に休みをとっていたとはいえ、至急の呼び出しを無視することは出来ない。

 人手が足りないこともあり、断れなかったのだ。

 しぶしぶりょうしょうはしたものの、すでに到着している後輩達がいるので、僕が行ったところでやることはないだろう。

 それに、優秀な同期も、遅れて合流するとのことだから、早く終わる仕事なのは間違いなかった。

 いつもならば、すぐに終わらせようと思うのだが、久しぶりにお力と会ったからだろうか。

 無駄に時間をかけて支度をし、いつもは気にしないところまで整えて、少しでも長く時間を稼ごうとしている自分に気がついて、なんだか恥ずかしくなってしまった。

 それでも、最後に髪を整えてしまえば、あとは店を出ていくだけになる。

 泣き跡の残るお力を見下ろしていると、昇る朝日に照らされた道の方から、男の声が自分を呼んでいるのが聞こえてくる。

 せめて最後に、目覚めた彼女へ別れの言葉くらいは言いたかったのだが、昨夜はひどく泣いていたため、疲れたのだろう。

 深い眠りについた彼女を起こすことができず、こうして寝顔を見ながら二の足を踏んで、こんな時間になってしまったのだ。

 何より、なんと言葉をかけてやればいいのかも分からない。

 考えている間に店を出る時間になってしまったため、仕方なく彼女の寝顔に向かって、「また来る」とだけ伝えたが、階段をりきっても、彼女が起きてくる気配はなかった。

「おや、お帰りですか?」

 疲れた顔でちょう簿をつける女主人がこちらを向くと、料理の仕込みをしていた男達もそろって振り返る。

 いつの間にか、かおみになっていた者が何人かいるため、「今日はお早いですね」「昨夜はどうでしたか」などと、挨拶もそこそこに質問をされた。

 うやむやな返事をしながらがりがまちに足をかけると、昨夜のばんつとめた老女が、静かに僕の下駄を出してくれた。

「……なんだ、どこかへ逃げたわけではなかったのだな」

 隠されたことには気がついていたが、珍しく口から出てしまった冗談に、ものしずかな老女が微笑む。

「ええ、先ほど戻られましたよ。ささ、どうぞ」

 優しい笑顔の老女にうながされ、下駄のはなにひょいと足の指を引っ掛けると、「男前は違うねえ」と、仕込み途中の男達が急に褒め出したのだ。

「力ちゃんが熱を上げているから、どんな色男なのかと思ったら、こんな立派な人だったとはなあ。やっぱり、売れっ子は見る目が違うねえ」

 一番の年上だという男がごうかいに笑うと、他の男達も「ちげえねえ」と笑いだす。

 そうやってひとしきり笑ったところで、「また来てくだせえよ」と、誰かが大声で、嬉しそうに言った。

 その言葉に軽くうなずき、「また来る」と女主人に伝えると、「お力に伝えておきますね」と、起きてこないお力に怒ることもなく、いつも通りの調子で返事をしてくれたので、微笑んで店をあとに出来たのだった。

 今日は、良い天気だ。

 そう思いながら、馬車を捕まえられる大通りまで歩き、お力のことを思い出した。

 泣いたことには驚かされたが、あれはあれで、僕に気を許してくれたということになるのだろうか。

 いつまでも理解できない人だが、それでも、胸の内はじんわりと温かい。

 このまま現場へ向かおうとしたところで、隣に誰かが並ぶ。

「……昨夜は、ずいぶんと楽しんだようだな」

 低い声で話しかけてきたのは、仕事の同僚だ。

「……お前には関係のないことだ。それより、どうなったんだ?」

 尋ねると、にくめいた顔で笑った男は、「同じだよ」とだけ答える。

 変わらない返事に苛立ってしまい、横目で睨みつけると、「俺はかんかつがいなんだから、当たり前の答えだろうが」と、焦り出したのだ。

「そりゃあ、元いたところだから、ある程度はゆうずうくさ。だが、今はもう、管轄外のしょにいるんだ。これが限界なんだよ。お前だってわかるだろ?」

「言い訳になるか。元は元だが、それでも顔は利くんだ。部署以外でならば、いくらでも集められるだろう。それを、適当な理由をつけて、いい加減なことを言うのならば、この間の件でかばったことを、うえに報告するぞ」

「そ、それはかんべんしてくれ! やっとここまで来たんだ! ただでさえ現場で役立たずだと言われてるのに、この間のしったいまで報告されてしまったら、俺はどこにも行けなくなってしまう! それだけはやめてくれ! 頼む!」

「なら、引き続き頼む」

 僕の言葉に、しぶしぶといった様子でうなずいた彼は、そのまま速度を落として建物のかげへと入っていく。

 それを確認することなく表通りへ出た僕は、馬車を捕まえて現場へと向かった。



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