第七章

第四十七話


 ――ふとした時によみがえるのは、かつて恋した女の顔だ。

 情けない話だが、にょうぼうどもを選んだというのに、どうして俺はこうも、どっちつかずのおお鹿ろうにしかなれないのだろうな。

「……思い出したからといって、今さらどうなるものか。忘れてしまえ、諦めてしまえ」

 自分に言い聞かせるように、もうその時が来たのだと、空っぽになった胸でずっと考えていた。

 これまでいくとなく、「もうやめろ」と自分へ言い聞かせていたが、ここで思い切る時がきたのだ。

 何度も何度も店へ足を運んだが、彼女が会ってくれることは一度もなく、それどころか、姿さえ見せてくれなかった。

 我が子を遊びに連れて行くのを口実にしてまで、新開へと行ったところで、「また来たのかい」と、店の女達に呆れられるだけなのだ。

 いつしか、お力のみから昔の男へと、周りのかたが変わっていくことに気がついてはいたが、お力が『菊の井』のかんばんむすめとして、ここまで人気者になったのは予想外だった。

 やといのさいちが会うには厳しい相手だが、昔のよしみで会えるだろうと思った自分が馬鹿を見ただけだ。

 日雇いの同僚達から、お力の評判を聞くたびに、「昔は、お前らなど足元にもおよばぬほどの金を持ち、地位もあり、お前らがあこがれるお力は、この俺に惚れていたのだぞ」と苛立ったりもしたが、だんだんとその気持ちも薄れてきた。

 言ったところで、過去のこと。

 いい笑いものになるだけだと口をつぐみ、くちさがない奴らのかげぐちにもくっせず、かんどうの日々を生きてきたのだ。

 暑い日が続く中で、「あんな女のことなど忘れろ、諦めろ」という自分の心の声に、「どうせお前には無理なのだから、素直になれ」と、無責任に笑う自分がいる。

 そのげんえいを見ながら、「お力など、しょせんかねだけの女だったのだ。もう思い出すこともやめよう」と決意はするのだが、えんもうでが近づく町を見るたびに思い出すのは、共にいられた頃のお力とのことだ。

 去年の盆には、俺の友人だったさいほうしょくにんに揃いのかたこしらえさせ、二人一緒に川沿いの神社にお参りをした。

 あの時のことは、今でも鮮明に胸の内に焼き付いている。

 こんな生活になってからも、すぐ心に思い浮かぶほどにみずみずしく、今この時も、昨日のことのようにあの頃を感じられるのだ。

 数年は一緒にいた相手であったが、最も幸せだったのは、その時だろう。

 金もあり、地位もあり、妻も子もいて、お力もいる。

 まさに、こうふくぜっちょうだったのだ。

 ――しかし、今ではどうだ。

 貧乏長屋の、最もれつあくな場所で息をひそめ、金も何もない状況で妻子を養い、お力に会えないままの現状は、果たして、不幸だと言えるのだろうか。

 金もないし、家もない。

 お力もいなければ、地位もない。

 それでも妻子は残り、妻に苦労をかけながらも、共に一人息子を育てている。

 日雇いの仕事は、それなりにりがいいものの、日々の食費も冬の燃料代もあっという間にこうとうし、ここ数年はひどいものだと、妻がっていたのを聞いた気がする。

 けいは妻任せだが、それでも酒の一杯や二杯は飲めるのだから、少しくらいは仕事をしなくても大丈夫だろう。

 お盆に入ってからは仕事に出るいもなく、安い酒を飲みながら、遠のいていくお力との思い出をさかなに、ぼうっとしているだけの毎日だ。

 きちは俺がいるのが嬉しいのか、外へ出るのを控えるようになり、たまに「遊んでおくれよ」と、俺の背中に抱きついて甘えてくる。

 女房のお初は澄まし顔で内職をしているが、「お前さん。それではいけませんよ。仕事に行かなければ、いつまで経っても変わりませんからね」と、時々思い出したようにいさててくるのだ。

 普段は穏やかでしとやかな良い女房なのだが、たまにお力の影をさっしてか、きつい物言いをしてくることがあり、そこだけは気に入らない。

 お初にも太吉にも、お力とのことで迷惑をかけたため、これまでは黙って聞き流していたのだが、ここ最近はどうも耳にうるさく、だんだんとかいになっていく。

 家にいる時間が増えたからだろうが、子供の前でもえんりょがなくなると、女とは、こうもうるさい存在なのかと、わるいとさえ思えてきた。

 一度怒り出すと止まらないお初に耐えきれず、「ええ! 何も言うな、黙っていろ!」と強い口調で話をさえぎると、お初はさらに強い口調で、「お前さん!」と叱ってくるのだ。

 今日もまた同じ話をされるので、俺が「もう黙っていろ!」と、苛立ちながら横になるのを見てか、お初はため息まじりに内職の手を止めた。

「そのまま黙っているだけでは、日々を暮らしてはいけませぬ。体調が悪ければ薬を飲むと良い。お医者にかかるのも、まあ良いでしょう。金が出るのは仕方のないことだけれど、お前のやまいは医者に治せるものではないのだから、気さえなおせば、どこに悪いところがありましょう。少しはしょうになって、私達のためにも努力をしてください」と、うつむきがちに言ってくる。

 お力が今いる場所など、お初には知られているし、俺がかよっていることだって知っているはずだ。

 それでもまだ、彼女との関係をてきしてこないお初の態度に、少しばかり残っていたざいあくかんが消えていく。

 一人で言いたいことを言い、好きに怒るのは勝手だが、それを聞かされる身にもなってくれ。

「……同じことを何度も何度も言われては、耳にタコができてしまって、くすりにはならぬ。そうだ、酒でも買ってきてくれ。気まぐれに飲んでみよう」

 最近は、お力との思い出に振り回されていて、酒も茶も、ろくに飲んでいなかった。

 いつもは『菊の井』で飲んできたり、仕事終わりに付き合いで飲んできたりしていたが、家にはいつも、酒があったはずだ。

 ここ数日はひとくちも飲んでいないのだから、お力を忘れるくらいには飲めるだろうと思ったのだが、お初は我慢できないとばかりに、大きなため息を吐いて、すっと顔を上げた。

「お前さん。その酒が買えるほど余裕があるのなら、出かけるのも嫌だと言いあそばす貴方に向かって、ってでも仕事に出てくださいませとは、いくら私だって頼みませんよ。私が内職をしているからといっても、朝から夜にかけて、じゅうせんせきやま。親子三人もがかかれば、おもですら満足に飲まれないのです。今食べているこめつぶだって、私がどうにかめんして手に入れているだけのこと。それなのに、そんな苦しい生活も見えず、酒を買えとは、よくよくお前はちゃすけになりました。そんな愚かな人だなどと、今の今まで、気づきもしませんでしたよ」

 今までってきた女房にキツい言葉をかけられ、俺は背中を向けながら、苦しむ胸を手で押さえつけていた。

 いつもならば、俺や近所に気を遣って、強い言葉は使わないようにしているのだが、今日は、部屋のすみで遊ぶ太吉も目に入らないのか、怒りを目に浮かべたお初は、俺を睨みつけながら言う。

「それだけではございません。お盆だというのに、昨日だって何もせずに一日中いえにいて、横になるだけでございました。自分は、酒だのめしだのとくちにしているのに、太吉にはしらたまだんの一つも食べさせなかったではありませんか。去年は、どうにか工面して手に入れたしらたまだというのに、今年の貴方は、『盆の時期だったか……忘れていたな』とだけ言って、酒や遊びで金を使い切ってしまったではありませんか。その時の小僧の顔を……悲しげに貴方を見上げた我が子の顔を、どう見ていたのですか? ご先祖様に対してもそうです。ぼんになっても、おしょうりょうさまのおたなかざりですらも作ってはくださらず、送り迎えのきゅうりうまうしもないままに、おとうみょう一つで済ませたのですよ。あんなか細いいとだけで、ご先祖様への礼儀も尽くせぬまま、私がひたすらお詫びを申し続けているのも、いったい誰の仕業だとお思いなさる。誰がご先祖様に頭を下げて、何もできないことを謝り続けていると思うのですか」

 ――さあ、答えてくだされ。

 口には出さないお初の言葉が、ぼうな背中に刺さってくる。

 日雇いとはいえ、それなりに手当ては良い仕事なので、そこまでひどい生活をしているとは、思いもしなかった。

 服も住まいも貧しいままではあるが、食費くらいは大丈夫だろうと思っていた自分のあさはかな思い込みが、沈んでいた自分の心に重く積み重なっていく。

 苦労をさせていることに対しての罪悪感は、今も少しは残っている。

 お初にも太吉にもかんしんな日は多かったが、これほどまでに迷惑をかけていたのかと、改めて考えさせられ、消えたと思っていたお力に関する罪悪感が戻ってくるようだった。

 せんだいだい続けてきたとんを終わらせたのも、いっとうに迷わせかけたのも、全て、俺の責任だ。

 それをわかってはいるが、どうしても素直に「悪かった」とは言えないまま、ここまで来てしまったのも事実だ。

 お初に申し訳ないと思う以上に、自分は、お力に会いたい。



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