第四十八話


 もう遅いのかもしれないが、せめて、ひとだけでも会って話したいし、もう一度抱きしめたくて仕方がない。

 ひどいことをしてしまったことを詫び、せめて、話し相手くらいにはなれたら……と、そう思って『菊の井』に通い続けていたが、彼女にとって俺はもう、すでに過去の男になってしまっているのだろうか。

 お初の言葉を聞いて、真っ先に考えたのはそんなことだった。

 妻子があり、愛人がいて、金も、地位もある、立派な家だって持っていた自分なのに、最後に残ったのは妻子だけだった。

 今でも話す古い知り合いは、「奥さんと子供を大事にしろよ。お力のことなんてさっさと忘れろ」と真面目に言うが、すぐに、「今のお前はいちもんなしなんだからな」とあざわらうような奴だ。

 それを悔しいと思ったことはあるが、あいつの言うことは正しい。

 馬鹿にされても、さげすまれても、金がなくなって家を追い出されても、それでも俺と居てくれるお初と太吉を、俺は最後まで大事にしなければならないのだろう。

 そう思って今まで一緒にいたが、それでも会いたいと思うのは、お力なのだ。

 どうにもならない自分の心に呆れつつも、黙ってお初の話を聞いていたが、いつの間にかれた話にじろいだところで、お初は恨めしそうな低い声を俺に向けてきた。

「……そもそも、お前がほうくして、お力みたいな、しょうわるみだらな女に誘惑されたから起こったことではないか。言っては悪いが、お前はおやこうこうだ。実の親に迷惑をかけて苦しませただけでなく、今度は我が子まで苦しませようとしているのだから。少しはあの子の将来を考えて、にんげんになってください。お酒を飲んで気を晴らすのは、いちえつらく。心の底から改心して、やまいからもいっぽんちしてくださらなければ、こころもとなく思われます。どうか、太吉のためにも、あの女のことはお忘れくださいませ」

 はっきりと言うお初に、俺は何も言い返せなかった。

 さとい太吉は、母親の怒りを感じ取ってか、いつものように外へと遊びに行ったため、家の中には、俺とお初の二人だけ。

 彼女とは、親のすすめで夫婦にはなったものの、俺にはどうも、この女は、湿しめっぽくてかなわない。

 気が利いてよく働くので、両親も親戚もたいそう可愛がっていたのだが、跡継ぎとして一人息子として、好き勝手やっていた俺とは、初対面から合わない気がしていたのだ。

 それでも、長く一緒にいればじょうくかと思っていたが、他人への文句や愚痴ははっきりと言うくせに、俺に関わること――特に女関係については、一度も「嫌だ」とハッキリ言われたことがない。

 やれ両親が、やれ太吉がと、誰かを理由に俺を責めては、最後に、「私は貴方の妻ですから、これくらい平気です」と言って、おんせがましくしてくるのがじょうとうしゅだん

 目をくもらせていた両親も親戚も、この女のうわつらな笑みに騙されていた。

「こんないい嫁はいない」だとか、「嫉妬の一つもしないで受け入れてくれるのだから、死ぬまで大事にしろ」だとか、お初に関して、やかましく言われたことはキリがない。

 お力と付き合い始めた頃だって、知り合いや友人に置き換えて、「あんなおしろいくさい女を気に入るなんて、しょうではありませんよ」と文句を言い、そのくせ両親達には、「どうせ遊びですから」と、ものかりのいい妻をよそおう。

 親が死んでからは、褒めてくれる相手がいなくなったとばかりに俺を責め立て、そうやって親戚達を味方につけるなり、俺を追い詰めて、お力と別れさせたのだ。

 こちらも罪悪感があったため、お力と別れてからも、それなりに大事にはしていたというのに、お初の『物分かりのいい自分』は、今も変わっていなかったようだ。

 どうせ演じるならば、もっとうまくやってほしかったとも思う。

 本気で気づいていないか、気づかないふりをするのならば、俺もお初もまだ気が楽だっただろう。

 あるいは、怒ったり嫉妬したりして、なりふり構わずに、怒鳴りつけてきてくれてもよかった。

 なのにこの女は、いつも何かをたてにして、遠回しに俺を責めるのだ。

 だんだんとウンザリしてきているというのに、お初はまたも嘆いて俺を呼ぶが、返事をする気にはなれなかった。

 うっすらと開いた口から吐息がこぼれ出て、だんだんと太く大きくなっていく。

 もう何もしたくないとあおけになるが、それすらもお初にはさわるらしく、「それがお前様の答えなのですね」と言って、荒れた唇を噛み締める。

「貴方のひどさなど、とうの昔に知っていると思っておりました。家を守り、義理の両親を大事にしながら跡継ぎを産んで、大切に大切に育てつつ、貴方の帰りを今か今かと、首を長くして待っておりました。どれだけお金を使おうが、気まぐれで仕事をしなかろうが、それでも、帰って来てさえくれればいいのだと、ずっとずっと耐えてきたのでございます。それなのに、そんな身になってもまだ、あの女のことが忘れられないか。そんなに、お力のことが忘れられぬか。それほどまでに、お力のことが……」

 何も言わない俺のことなど、もうがんちゅうにはないのだろう。

 着物の袖を両手で握りしめながら、お初は恨めしそうに遠くを睨み、俺を通して何かを見る。

「……十年もって子供までもうけた私に、神経をけずらせ、心の限界が来るまで苦しい思いをさせて、こんな苦労までさせて……我が子には、両親のふるした襤褸ぼろわたして着させ、住まいだって、じょうひとのこんな犬小屋……。狭くて、暑くて、寒くて、虫が出て、とても人の住む場所ではありませんよ。本物の犬小屋の方が、まだマシなことでしょうね」と言うと、にがにがしげに家の天井を見上げる。

 シミだらけで汚く、かろうじてあまりはしない天井には、いつかわらが崩れてもおかしくない屋根が覆いかぶさっている。

「世間の全てから馬鹿にされて、違うものとして扱われて……たとえそうであったとしても、春と秋のおがんになったからといって、まさか、ご近所からもけられるとは思いもしませんでした。家で作ったもちや団子を、それぞれがとなりきんじょくばり歩く中で、『源七の家には何もやらないのがいい。へんれいが気の毒だ』と、私が聞こえるような場所でヒソヒソと、同じ長屋住まいの人達が話し合っているのですから、いっそうかたせばまります。しんせつからかどうかは知りませんが、それで、じっけんながの一軒は、ものにされたのです。じゅったいもの人達が、同じ屋根の下で似たような暮らしをしているというのに、ひと家族だけを仲間はずれとは、あんまりなちでございましょう。私だって、お彼岸の牡丹餅や団子くらいはどうにかできるというのに、なんと情けないことか……。彼女達の話を聞くたびに、私がどれほどみじめな気持ちになるのか……貴方は、知っておりましたか?」

 天井から俺に、視線だけを向けてくるお初に何も言わずにいれば、彼女はクッとのどらして笑う。

 そうして下を向くと、低い声でボソリと言い出した。

「……そうですよね。男は何かと理由をつけて、外に出ることが多くなれば、わずかばかりでも『家の外が気になるな』とは、思うこともないのでしょう。そもそも、昼間は仕事だ何だと家にいないのですから、そうなるのも仕方のないことです。けれど、おんなごころには、母としても妻としても、いくらいに切なく悲しく……おのずと肩身が狭まるのです。あさゆうあいさつも人の目を気にし、相手の顔色を見るようになるのが毎日でも続けば、何もかもが情けなく思われてきます。そんな思いを私がしているのを、貴方は自分のせいだとも思わないで、昔の愛人ばかりを思い続けている。思いやりなどカケラもない、あんな女の心の奥底――空っぽの本心が、それほどまでに恋しいか。わずかでも、自分を恋しく思ってくれていると、いまだに想い合えていると、そんなことを昼にさえも夢に見て、誰のためにもならないひとごとを言う情けなさが、私には我慢できないのです……」

 ――ブツブツと、何か言っているように聞こえたが、それは言葉にはなっていなかった。

 俺のことを悪く言っているようには聞こえるものの、どんな内容かまではわからず、そのまま無視するように黙り込んでいた。

 そんな俺の様子に、彼女は悔しそうな顔をして唇を噛む。

 そうしてまた、唇の開いた隙間から、ブツブツと何かを言ったのだ。

 それも聞こえなかったため、気になって肩越しに振り返ってはみたが、焦点の合わないうつろな目が、とても正気には見えなかった。

 とうとう気でも狂ったかと思ったが、しばらくすると内職を再開し、太吉が帰ってくるまで、一言も話さなかった。

 だんだんと色づく空を眺めながら、俺はやはり、目の前の女房よりも、お力のことを思い出す。

 これが恋なのか、それとも執着なのか――。

 俺自身にもわからない何かを胸の底に落とし、遠くの空を思い浮かべることしかできなかった。



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