第四十九話


「これほど一緒にいて、くしろうとも……女房のことも、我が子のことも、すっかり興味をなくし、お力一人に、命すらも渡すおつもりか……。なんて浅ましい……くちしい……つらい人……」

 最後に言ってやるつもりだった言葉も、私の独り言として片付けられてしまった。

 せめて、これくらいは言ってやろうと思ったのに……。

 たしかに、本当に思っただけで、なかなか言葉にできなかった。

 泣いてやろうとも思ったのに、目の中に恨みのつゆを含んだだけで、こぼすことすらできなかった。

 それでも、こんなせまいえならば、少しくらいは聞こえているだろうと思っていたのに、夫は興味がないのか聞こえなかったのか、いつも通りの無関心な態度のままだった。

 夫とお力の関係を知って数年。

 もはや、一年も二年も変わらぬほどに、長く感じた数年だった。

 家も、財産も、土地も、名誉も、お得意様も失って、それでもようやく夫が改心してくれるかと思っていたというのに、あの女はまた、しょうりもなく、同じ商売を始めたとかぜうわさで聞いたのだ。

 あんな最低な場所でも、かなりの売れっ子になったとかで、それなりに金のある男であれば、ひと見たさにかよめ、朝帰りになることもあるのだとか。

 私とそう年も変わらないというのだから、相当な若作りをしているのかと思いきや、鬼は歳を取らないようだった。

 それを良いことに、今でも男を騙して金をむしり取り、好き勝手やって楽しんでいるのだから、命だけはかんべんしてやったという甲斐かいもない。

 どうやら、男達からの評判は良いらしく、長屋にもりきりの私ですら知っているのだから、夫はとっくに知っていたのかもしれない。

 もちろんそれは、大当たりだった。

 ある時をさかいに、夫は、夕方にもならない時間から酒を飲んで帰ってくることが増えていき、以前はほとんど毎日持ち帰っていたにっとうを、週に数回まで減らしたかと思えば、がっかりした顔をすることが増えていった。

 最初は、日々のらしに飲んできているのかと思ったが、近所の目というのは恐ろしいもので、わざわざ我が家の前でご丁寧に、お力に会っているという噂をし始めたのだ。

 それは確か、夫を疑い出して間もなくの頃だったから、今でもよく覚えている。

 太吉も一緒に連れ出すことが増え、夫と出かけられることを喜ぶ我が子とはうらはらに、私の心は、怒りと悲しみでどうにかなってしまいそうだった。

 男など山ほどいるというのに、どうしてあの女は、わざわざうちの夫に手を出すのだろう。

 そんなことを考えながら、命を取ってやろうとまで恨んだこともある。

 夫に殺されかけたと知った時には、「ざまあみろ」と、心の底から笑ってやったというのに、新開に落ちてもまだりないのかと、包丁を握りしめて泣いたことだってある。

 しかし、近所の噂によると、今は、わざと夫を避けているらしかった。

 店に来ても会わず、昔のお得意様としてぶんつうは続けているらしいが、それ以上でもそれ以下でもない距離感で、のらりくらりとかわしているらしいのだ。

 最初こそ、「まさか、あの女に限ってそんな……」と思っていたが、お力は本気で夫を遠ざけているようで、最近では、他に良い人ができたと噂で聞いている。

 夫もそれを知っているようだけれど、特別変わった様子もなく、仕事帰りに店へ顔を出しては、何かと理由をつけられて、店先で追い返されるだけの日々らしかった。

 ようやくあの女も諦めたかと思った矢先、今度は夫がちしてしまい、何の役にも立たなくなってしまったのだ。

 春になってからは、夫もかたごとに慣れてきたため、このままの調子でやっていければ、少しはたくわえられるし、何か良い商売が見つかれば、かいぎょうきんにできるかもしれないと、前向きに考えられるようになってきた。

 恥を忍んで、昔の主婦仲間に手紙を送り、をたどりにたどって、紹介してもらった内職も始められたので、家族三人、どうにかつないでこられた。

 それなのに、ようやく楽になれそうだという時になって、夫はお力へのこいわずらいをこじらせてしまい、とうとう、仕事をほうするまでになってしまったというわけだ。

 太吉を引き合いに出しても、ご先祖様の話をしても、呆けている夫には、うまみみねんぶつ

 とうとう我慢できずに文句を言ったものの、本当に言いたいことになると、どうしても声に出せない。

 私が、というよりも、妻としての意地があり、今さらみっともなく、泣いてすがって、「もっと良い妻になりますから」などと、許しをうような真似は、どうしても出来なかったのだ。

 そんなに自分への関心がないのか、子供が可愛くないのかと、思わず感情的になりそうにはなったが、それでも夫は夫だ。

 妻の自分が追いつめてはどうしようもないとこらえ、涙を呑んで内職を再開し、気持ちが落ち着いた頃には、夫の深いため息もなくなっていた。

 二人揃って何も話さなくなれば、狭い家の中でも、なんとなく寂しく思われてくる。

 これほど同じ部屋で二人、一緒にいたことがなかったため、今は沈黙がありがたかった。

 そろそろ夕食作りを始めようかと顔を上げれば、部屋のすみに濃い影が見えることに気がついた。

 もうそんな時間かと庭の方を見れば、太陽の光が東向きに動き出していて、不気味さを感じさせるほどの静かな陰影を、空から地上へと引き寄せていくところだった。

 ここは裏通りよりも奥にある長屋なので、表通りにある家に比べれば、なおさら薄暗くなるのが早い。

 そのため、季節に関係なく、あんどんしょくだいを近くに置いておき、暗くなり始めるとすぐに火をつけ、室内の明かりをとるのだ。

 蚊が入ってくる時間帯でもあるため、急いでばちまつを置いて火をつければ、フスフスと音を立てて、白い煙が立ちのぼっていく。

 真っ先に飛び込んできた蚊が数匹、甲高い鳴き声を上げるのが聞こえてくると、続くように音が重なり合い、耳に痛いほどの大合唱になっていった。

 そうやってひとまずやっておくことを終えて、せみおもての作業場所に戻るけれど、息子はまだ帰ってきていないことに気がつく。

 夫は、息子のことなど興味がないと言いたげに、背中を向けてしまっているし、最近はかどわかしが増えてきていると聞いていて、一人になりやすい息子のことを考えると、不安になることも多くなっていた。

 どうせ家にいるのだから、せめて今日くらいは、一緒に息子の心配をしてもらいたかったのだけれど、こうなってしまっては、夫に何を言っても、どうしようもないことを知っている。

 そうやって心細い気持ちを隠しながら、開けっぱなしのの外をじっと見ていると、いそいそと嬉しそうに足取りをはずませて、足早に帰ってくるきちろうの姿が見えてきた。

 何やら、大きな紙の袋を両手に抱えて、「かかさん母さん、これを貰ってきた」と、にっこりして駆け込んでくるので、その手にある物を見てみれば、それは新開にある『』のカステラであった。

 かなり前から人気の店で、こんな貧乏長屋でも噂になるほど、とても美味しいと評判のカステラだ。

 私も昔、頂き物で食べたことがあるのだが、初めて食べる洋菓子であったため、和菓子に慣れた舌では、美味いかどうかはわからなかった。

 それをやむほど、好みの味ではなかったので、特に思い入れもないのだけれど、満足に甘い物を食べられない太吉には、和菓子よりもご馳走に見えるのだろう。

 嬉しそうに私へ見せるので、「おや、こんないいお菓子を誰に貰ってきた。よくお礼は言ったのかい?」と太吉に聞けば、「うん、よくおをして貰ってきた。これは、『菊の井』の、おにあねさんがくれたの」と、嬉しそうに答えたのだ。

 この時の気持ちなど、何に例えられようか。

 自分でもわかるほどに顔色を変え、嬉しそうに笑う我が子に向かって、「ぶとやつめが」と、自分でも聞いたことがないほどの低い声が出たのだから。

 私の様子が変わったことに気がついたのだろう。

 太吉はびくりと肩を震わせて私を見上げると、怯えた顔でうわづかいになる。

 そんな我が子に向かって、「こんな子供まで使って」と、口の中から吐き捨てるように言葉が飛んでいく。

「これほどのきょうに投げ込んでも、まだいじめ方が足りないと思うのか、あのしょうわるおんなめっ……! しょうしんしょうめい、自分の男と血を分けた子を使いにして、とうとう、この子のととさんの心を動かしにきたのかっ。こんな、ご機嫌取りのしなまで渡しやがって……! どれだけ私を……いや、我が子まで馬鹿にする気かっ! おい! あの女は、何と言ってこれをした!」

 できるだけいかりを我慢しながら、目の前で怯える我が子に問えば、「お、おもてどおりの、すごく賑やかなところで遊んでいたら、鬼姉さんが、どこかの知らないおじさんと一緒にこっちに来て、『菓子を買ってやるから一緒においで』と言って、おじさんと笑ってた。それで、新開の方まで連れて行ってくれて、いい匂いのする店の前まで来たら、『どれ、中に入って、好きな物をいいな。何でもいいからね』って言ったんだ。でもおいらは、『はいんないよ』って言ったんだけれど、あねさんが抱っこしてくれて、そのまま店に一緒に入って……姉さんの金で、これを買ってくれた……」と、目も合わさずに言うではないか。

 綺麗な和紙に包まれたカステラを大事に抱え込み、「食べてはダメ? ねえ、ダメ?」と尋ねてくるのが憎らしく思われ、せて細くなった自分の手を強く握りしめる。

 私がこぶしを握ったことで、太吉は悪いことを言ってしまったとでも思ったのだろう。

 私の顔色をうかがうように下から覗き込み、モジモジと身をひねりながら、それでも良い答えを待っている。

 普段は可愛らしいと思うのに、今日はとても気に入らなかった。

 人のびんかんな子であり、日頃からさとい子だとは思っていたけれど、今回は、私の心をはかねているのだろう。

 背中を向けた父さんを見て、今にも怒り出しそうな私を見て、それでも、かかえた菓子を優先しようとする我が子の姿が、昔の夫と重なっていく。

 あの女に、すっかりなずけられてしまったのだとさとった私は、幼い我が子が菓子を大事にする姿から、かつての夫を見てしまった。

 私よりも、何よりも、誰よりも大切にしてやがったあの鬼に心を奪われて、恋に狂っていた頃の源七を――。

「……ああ、まだおさなだからといっても、なんというふんべつのない子だろう。あのあねさんは鬼ではないか。父さんをなまものにした、鬼ではないかっ。そんなことすらも、わからないなんてっ……!」

 言葉はもう、止まらなかった。



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