第五十話


ととさんのことだけじゃない。お前の着物べべがなくなったのも、お前が住むべき家がなくなったのも、全部、あのおにめがしたしょぎょう。父さんにしがみついて、金も何もかもをしぼくしても飽き足らず、なおもに不幸を呼び寄せる悪魔に、お前は、『菓子をもらった、食べてもいいか』と聞いてくるほどになずけられたのが情けない」

 そう嘆きながら太吉の手元を見ると、綺麗に包装されていた袋が潰され、ところどころに大きなしわができているのを見て、「汚い」と、さらに口から飛び出していた。

「汚い、汚い、汚い。ああ、なんて汚らしく下品な、こんな菓子っ。家に置いておくのも腹が立つ! 捨ててしないなっ! 今すぐ、捨てておしまい!」

 我が子に叫ぶようにそう言うと、太吉はさらに袋を握り締め、深くうつむいてしまう。

 それを見て、怯える我が子を哀れに思うどころか、拒絶されたと思い、さらに苛立ちを感じてしまったのだ。

「……そうかい。そんなに、その菓子がしいのか。お前は惜しくて、もったいなくて、捨てられないか……」

 少しだけ小さくなった私の声にまどった太吉が顔を上げる。

 許してもらえるのかと、期待を込めた視線が私の視線と重なった時、腹を痛めて産んだ子供に媚びられていたことに気がついた――いや、気がついてしまったのだ。

 甘えているのかと、心配してくれているのだと思っていたことは、全てが違っていたのだ。

 この子は私を気遣ってくれていたのではなく、顔色をうかがっていただけ。

 母親をいたわって、父親を改心させようとしていたのではなく、私を怒らせないように、自分が怖い思いをしないようにと、ただひたすらに、媚びていただけだったのだ。

 なんとも子供らしい、残酷な、はっぽうじんをしていただけのこと。

 そもそもの初めから、この子は私を、心配などしていなかったのだろう。

 それに気づいてしまった今、初めて息子に父親の影を見た。

 そして、大嫌いなあの女の笑みが思い浮かび、おぐろげたままの歯を強く噛み締め、ボロボロのこぶしを痛いほどに握りしめていた。

「……こんな菓子くらい、父さんがちゃんとしていれば……あんな鬼になんか出会わなければ……いいや、あの鬼のほんしょうを見抜いて、遊びだったのだと、きちんと振ってさえいてくれたのならば、今頃は、好きなだけ買ってやれたというのに……。母に頼むのでもなく、父にねだるのでもなく、あの鬼に買ってもらったものが、そんなに大事なのかい……」

「母さん、あのね――」

 太吉が何かを言おうとした瞬間、私の頭は真っ白になっていた。

「馬鹿野郎め!」

 腹を痛め、ここまで必死に育てた我が子に向かって、「この馬鹿息子が! こんな菓子一つでほだされやがって! あの女、こんなおさなまでどくにかけようってのかい! ふざけんな! あの鬼めが! ちくしょう! 畜生! ちくしょう!」とののしりながら、カステラの入った袋をわしづかみ、裏の空き地へと思い切り投げ出した。

 地面に勢いよく落ちた衝撃で紙は破れ、勢いのまままろたカステラは、たけあらがきの隙間を抜けていき、軽い傾斜でさらに勢いをつけ、草の生えた地面を越えていく。

 そうしてさらに転がりながら、一つ、また一つと、裏のドブの中へと軽い音を立てながら、器用に一つずつ飲み込まれていくようだった。

 その音がむと、私の荒い息だけが部屋の中で聞こえる。

 今にも泣き出しそうな太吉を見ずに、もう一度、「馬鹿野郎めがっ」と吐き出せば、仰向けに寝転がっていた夫が、むくりと起き上がったのだ。

「お初」

 私の名前だけを大きな声で言われ、さらに苛立ちが増してくる。

「何かようかよ」と、今まで黙り込んでいた夫をくだす気持ちで返事をすれば、彼は私を見て眉をひそめた。

 振り向こうともしない私に対して怒っているのか、視線のみを向ける私の横顔を、鋭く睨みつけて、「いい加減、俺のことを馬鹿にしろ」と言ってきたのだ。

 何を今さらと、呆れたようにため息を吐けば、彼は低い声で一人、怒りを込めて話し始める。

「俺も太吉も黙っているのをいいことにして、好き勝手にあっこうぞうごんとはどういうことだ。親の知り合いならば菓子の一つくらい、その子供にくれてよこすのは、不思議でもなんでもないこと。お前だって昔は、得意先の子供や近所の子供に、かりんとうやみずあめなどをくれてやっていただろうに。礼こそ言ってももんなど、相手に失礼だ」

 夫の言葉を鼻で笑う。

 お前がそれを言うのかと、馬鹿にしたような横顔の笑みに、源七は視線を厳しくする。

「相手が誰であれ、我が子が菓子を貰ったからといって何が悪い。馬鹿野郎呼ばわりは、太吉をこうじつにした俺への当てつけ。我が子に向かって、父親のわるくちかげぐちを恥ずかしげもなく言う女房のかたを、いったい誰が教えた。今ここで言ってみろ」

 怒鳴るでもなく、感情的に怒るでもなく、静かにさとすようにそう言った夫の言葉に、私は返事をする気が起きなかった。

 今さら何なのだと、苛立ちをあらわに睨み返すと、夫はため息を一つ吐き、今度こそ呆れたと言わんばかりの様子だ。

 そうかと思えば、太ももにだらしなく載せていた腕に力を戻し、うつろだった目にも力を込めて、私を睨みつけてきたのだ。

「……お力が鬼なら、お前はおうだ。お力のような商売人の手口は嫌というほどに知ってはいるが、妻たる身の不満も何もかもを声に出してわめらしたところで、いったいどうなるというのだ。女の文句やら不満やらを聞いた誰もが納得し、同情してくれると、本気で思っているのか? お前の言うように、俺はお力に騙される形で全てを失った。太吉まで巻き込んで、こんな貧乏長屋に親子三人、身を寄せ合って暮らすことにもなった。だが、かたごとをしようが、ぐるまを引こうが、ていしゅには亭主の権利がある。気に入らない奴を家に置いておけるか。どこへなりとも出て行け。今すぐに出て行け。面白くもないろうめ」と、吐き捨てるように言ってきたのだ。

 それまで、いつも通りの気の抜けた夫だったのに、この瞬間から彼は変わった。

 私を冷めた目で見つめ、これまで尽くしてきた妻を、本気で追い出すつもりなのだ。

「それはお前さん、無理な話だ。じゃすいが過ぎる。なんのために、お前に当てつけようというのか。この子があまりに幼く、親の事情などわからないからと、あの女は――お力は、お前さんに会うために利用してきたのだろうと、そう考えただけなんだ。ずる賢く考えられたお力のやり方の憎らしさに、おもあまってしまい、とっさに言ってしまったことではないか。それを言いがかりにして、妻の私に出て行けとまで言うとは、あまりにむごうございます。家のため、家庭のためを思えばこそ、自分が気に入らないことを言いもします。そうでなければ、こんな貧乏暮らしでまとい、たる収入のために内職をし、お前の帰りを今か今かと待ちながら、人の笑いものになるような苦労を耐えたりなどしておりません。もう、それすらも、わからないのですか……」と泣いて言ったが、夫の目が元に戻ることはなかった。

 むしろ、さらに冷めた目を私に向け、「貧乏暮らしに飽きがきたのならば、勝手にどこへでも行ってもらおう。お前がいないからといって、俺がじきになるはずもないだろうし、太吉がゆっくりと、家でくつろげないわけでもないだろう。俺と太吉だけでも充分に暮らしてはいけるから、お前がいなくとも、太吉一人を成人まで面倒見ることくらいはできる」と言ってきたのだ。

 それはあんまりだと言い返そうとしたが、夫は私を静かに睨みつけ、はっきりとした口調で話を続けていく。

「むしろお前がいれば、けてもれても、俺へのわるくちを言うか、お力へのねたみを言葉にするばかり。ねんがらねんじゅうそんなものを聞いていれば、つくづく聞き飽きてしまう。もう、嫌になったのだ」

「そんなこと――」

 言った覚えはない、と言いかけたが、源七のひとにらみで黙り込むしかなかった。

「貴様が家を出ないならば、どうするにせよ、同じこと。たいして惜しくもないしゃくけんだ。俺が、太吉を連れて出て行こう。そうなれば、思うままにがなり立てられて、都合も良かろう。好きなだけ暴れて大声を出し、俺への悪口もお力への嫉妬も、近所への文句だって何だって、思う存分叫べばいいさ」とまで言うので、ついカッとなってしまい、「お前さん!」と怒鳴りつける。

 すると夫は、静かに背筋を伸ばし、姿勢を正した。

「さあ、貴様が出て行くか? それとも、俺が出て行こうか? どちらでも好きな方を選べ!」と勢いよく言われ、太吉を振り返りながら唇を震わせる。

 太吉はもう、私への恐怖を隠そうともせずに怯えていて、私と視線が合うなり、身を震わせた。

 必死にこらえていた涙をこぼし、これまで我慢していた感情ごと大きな声で泣き出したのだ。

 それを見て、ようやく私は冷静になる。

 夫の冷めた視線を浴びながら、そっと唇を引き締めれば、心は静かにいでいた。

「……お前は……お前さんは……それなら本当に、私とえんするつもりかえ」

 尋ねたはずなのに、どこか確信めいた口調でそう言うと、彼は静かにうなずく。

「知れたことよ」

 その一言で、この人はもう、自分の知る源七ではなくなったのだと確信する。

 そして、それをすでに知っていた自分に気がつくと、もう、一人で立ってはいられなかった。



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