第五十一話
こんなにも
畳に膝をつく体をどうにか
こんなに尽くした結果が、これか。
夫を改心させようと待ち続けたというのに、その結果が、こんなものか。
結局、私はあの女に――お力という名の
ああ、
若さも、美しさも、自分の時間さえも
女として見られなくても、太吉の母として認められなくても、それでもまだ、妻としての役目は残っていると思っていた。
妻として、
黙って聞いてくれているのは、耳に痛くとも、私の言葉を受け止めてくれているからだと思っていた。
何も言わないのは、私の言葉が正しいから、否定する必要がないのだと思っていた。
ならばどうして、今になって、そんなひどいことを言うのか。
私はただ、あなたと一緒に居たかっただけなのに。
ここ数日は、あんなにも熱い目で遠くを見ていたというのに、一番近くにいたはずの私には、冬の寒さよりも厳しい目を向けてくるのか……。
怒ってしまえば楽なのに、何年も我慢した気持ちはもう動かず、胸の奥底で渦巻いて、やがて消えた。
(ああ、それでも私はまだ、この人を見捨てられない)
妻としての意地が残っていたのか、母親としての責任からか。
いや、これはもう、
夫に夢見た私への、何もかもを無くそうとしている自分への、明らかな失望だ。
ここで自分を取れば、全てを失うと、私は気づいてしまった。
震える体を、どうにか動かして、
精一杯
「……これについては、私が
今すぐにでも、「私は悪くありません」と叫んでやりたかった。
どうしてあんな女に、私が頭を下げなければならないのだ、と。
冷めた目で私を見る夫は、遠くにいるお力のことを
それがもどかしく、そして、何よりも悲しかった。
そんなことを思いながらも、住む家が無くなるのは嫌だと、必死になって夫に頼み込んだ。
「……たしかに、我が子へひどいことをしただけでなく、私達の子を大事に扱ってくれたお力を鬼だと言いましたから、あなたの言うとおり、私は悪魔よりもひどい
泣くのを我慢しながらそう言ったところで、聞き入れてもらえないことは充分理解している。
それでも、わずかでも情が残っているのならば、この人だって鬼ではないのだから、追い出すことだけは勘弁してくれるかもしれないと、期待したのだ。
うつむいてしまった顔を上げた時、夫の顔が
昔は、女が放っておかないと評判だった顔も、日焼けと
体は痩せて、
そんな姿を、正面からしっかりと見てしまったからか、あれほど出てこなかった涙が込み上げてきたのだ。
それでも、この人の前で涙は
「……改めて言うほどではないのですが、私には両親がおらず、兄弟と呼べる人達もおりません。
震えながら懇願するが、夫は
何度も何度も頭を下げるが、その態度は変わらない。
続く沈黙にたまりかねて、「私のことは憎いと思われるでしょうが、この子に
太吉に免じて置いてもらおうと、何度も何度も頼み込むが、夫は体ごと壁に向かってしまい、顔すら見せてくれなくなった。
私の言葉も耳に入らない様子で、話し合いすらもできないのだと
「これほど、意地悪な人ではなかったのに……」
人の話を聞かないことも、人の気持ちを
そんな人だからこそ、お力との仲を知っても、私のことを見てくれなくても、今の今まで耐え続けてこられたというのに。
全てを無くし、可愛い我が子に苦労をさせることになっても、私はここまでついて来た。
人の
いずれは
そうやって耐え忍んできた結果が、こんなものか――。
本当に
もはや愛しいとも思えぬ夫の姿を目に収め、変わり果てたその横顔に、深くて軽いため息が漏れる。
「……女に
それでもまだ、夫にしがみ続けてきた
込み上げてもこない涙を今さら
「……我が子への――太吉への愛情は、本物なのでございましょう。ですが、お力へ向けた心が戻ってこない以上、しまいには、可愛く思う我が子でさえも、いつか
そして覚悟を決めて、夫の気持ちを諦めることにした。
それでもまだ、夫が改心してくれることを期待している
ここにいる彼は、夫でも父親でもないのだと、そう考えて納得している部分だってあった。
それでも心は正直で、冷めた目をした夫を見るなり、もう昔には戻れないのだと理解したのだ。
このまま源七に
それだけは、確かだった。
だからといって、全てを投げ出すわけにはいかない。
力が抜ける感覚に
「お前は、
試すように言えば、太吉は迷うことなく「母さんがいい」と答えてくれた。
「おいらは、お
母である自分を選んでくれたことを嬉しく思う反面、それなりに
子供の
父親を見ることもなく、私のそばから離れようともしない太吉の頭を撫でながら、私は首だけを振り向かせる。
「お前さん、聞かれましたか? 太吉は、私に付くと言っております。男の子ですので、これからのことを考えればお前も欲しいでしょうけれど、この子は、お前の
「子も何も
「……
そんな態度にすら呆れてしまうほどに、私は彼に対して、何も感じなくなってきている。
少しくらいの情はまだ残っているからと、一応は心配する言葉をかけはしたのだが、夫の方はもう、私のことなど、妻だとも女だとも思っていないのだろう。
すっと立ち上がり、ほとんど何も入っていない、小さな押し入れを開ける。
どこにしまっていたか……と手探りに中を触ると、何やら、いつのかもわからない小さな
それを取り出して、古びた畳の上に広げると、同じく押し入れを探って見つけた
「これは、この子の
返事はない。
慣れた手つきで
小さな風呂敷に納まるほどの荷物を手に、このまま太吉を連れて出て行こうと思ったのだけれども、せめてもの
「……お前様。挨拶をさせていただく前に、お話があります」
夫は壁を向いたまま、何も言わない。
それでも、これまで夫婦として、家族として、ずっと一緒に暮らしてきた相手なのだから、どうしても言いたいことがあった。
夫が無視している横で、私は静かに顎を引いた。
「お酒を飲んだ上で言ってしまったのであれば、覚えていないと言えば済むことでございましょう。ですが今回は、そういうことではありませんので、後で『しまった』と思うことがあるはずです。今この場で、よく考えてみてください。たとえ、これ以上にない貧乏の苦しみの中であっても、両親が二人揃って一緒に育てる子供は、
夫は、
以前ならば、私を睨んで叱ってきたというのに、この人の中ではもう、太吉ですらも、家族ではなくなっているのだろう。
「ああ……どうしようもない。こんなにも
太吉が私を目で追い、続いて立ち上がるが、夫はもう、何もしない。
「……これが最後ですから、お別れ申します」
これまでの感謝を込めて夫に頭を下げたが、太吉は真似をしなかった。
「さあ、行こうか」
我が子の手を引いて
けれど、「行け」とだけ言った彼は、私達を呼び戻してはくれなかった。
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