第二章

第八話


 ある雨の日の退屈で何もない時だ。

 表を通るやまたかぼうの男を見つけた。

 丸い帽子は現代的なのに、昔ながらの羽織姿の男が一人、急ぐわけでもなく、静かに店の前を通り過ぎようとしている。

 三十前後でそこそこ身なりが良いように見えたため、珍しく暇を持て余していたおりきは男を見つけるなり、女達がたむろする店先で立ち上がった。

「あの男をあのままにしておこうなんて、そんな甘い考えではいけない。しがみついてでもとらえなければ、この雨の降り具合からして足が止まるはずがないだろう。声掛けだけじゃあ駄目だ」

 そう言って外へ駆け出したお力は、男の袖をたもとごとつかんですがると、しおらしく身を縮こまらせて、「どこにも行かせません」とをこねた。

 店先から顔を出した女達は珍しいものを見たと驚いているが、そこは顔の良いお力の駄々なので、男はまんざらでもない顔で彼女に振り向いた。

「なんだ、随分と可愛らしい駄々っ子だな。どこの娘だ」

「そこの『菊の井』で働くお力です。一杯どうですか?」

 店先にいる女達が見ている中で、せっかくの客だと媚びを売っているのか、お力はいつもより甘い声だ。

 ここにおたかがいれば「今日はうまい手を使うね」と笑いそうだが、あいにく彼女は準備部屋で白粉おしろいを塗っている。

 見ているだけの女達をよそに、お力が男の袂をクイと軽く引けば、「それもいいな」と頷いてきびすかえしてくれた。

 あっという間に客を一人引き入れた彼女に対して、誰かが「顔が良いって徳だね」と呟くと、声もなくその場の誰もが頷いたのは言うまでもない。

 お力が客と共に店先へ入ると、続くようにさきから戻ってきた女が「あんたの馴染みがそこまで来てたよ」と言ってきた。

 お力は「後でね」と言って受け流すと、女は「そんなこと言うなんて珍しいね」と笑う。

 男は聞こえないふりをしているのか、それとも興味がないのか何も言わず、女をいちべつしただけでお力に連れられていったが、二人がいなくなった店先では、お力の馴染みと新しい客の話で盛り上がることになってしまった。

 そんなこんなあっても、ようやく引き入れた客を離さないためか、お力は二階の六畳間へと上がり、客をもてなす準備を甲斐甲斐しく始めた。

 六畳間はそれなりに綺麗だが、部屋の中には既に布団が敷かれている。

 ここまでお膳立てされると、たいていの客は布団を見るなり鼻の下を伸ばしたり、目の色を変えたりするものだが、この客は澄ました顔で座布団の上に座ってしまった。

 よく見れば男の身なりはとても良く、若く見えるがぞくには見えない。

 かと言って成金にも見えないし、親のすねかじりにしては立派な姿だ。

 今までにない上客と見定めたお力は、大広間のような三味線の音がない静かで落ち着いた雰囲気のまま、男と二人きりの時間を過ごすことに決めたのだろう。

 真っ直ぐに二階へ上げ、上客の一人にしようと考えたのかもしれない。

 お力の考えなど誰一人として露知らず、男は初めて入る店だからか、それともこういった店が珍しいのか、とにかく質問をしてくる。

 お力は年を聞かれ、名前を聞かれ、その次には両親の実家についてまで、警察官も顔負けの取り調べが続いていく。

「お前はぞくの出か。の娘か」

 男が尋ねると、お力は微笑む。

「それは言えないことでございます」

 その言葉に男は少し考え「ではへいみんか」と問う。

 しかしお力は首をかしげながら「どうでございましょうか」と答え、また微笑んだ。

 男はその態度に面白くなったのか、「そうか、そんなら華族だろう」と笑いながら聞くが、お力は首を傾げたまま、置かれたままのお盆へと視線を流した。

「まあ、そう思っていて下さいませ。お華族のおひいさまが自ら注ぎ渡すお酌です。ありがたくお受け取りなさいませ」と言って、盆の上のうつわに銚子の酒をなみなみと注ぐので、男は驚きつつも酒を受け取った。

「なんとまあ、ぶしつけな。ぎなどという礼儀知らずなやり方があるものか。それは小笠原という島のやり方か。最近何かと話題にのぼる離島ではあるが、まさか先祖が罪人で、どこかの離島で生まれ暮らしていたとは言うまい。何流なのか教えてもらいたいものだ」

 男がそう言うと、お力は斜め下へ向けていた視線を上げる。

 そうして男と視線を交わらせると、フッと口元に笑みを浮かべ、もう一つの器に酒を注ぎ始めた。

「これはおりきりゅうといって、菊の井一家の作法にございます。畳に酒を飲ませるやり方もあれば、大きくて平たい皿を顔や大事なところを隠す蓋がわりにして、『あ、ほら、あ、ほれ』と踊るやり方もあり、不愉快なお人にはお酌をしないというのが、最後の決まりになっているのでございます。面白いでしょう」

 当たり前だと言わんばかりに笑うお力は、男相手に気後れすることなく堂々と言い切った。

 どんな店であっても彼女が言ったことを実践すれば、とんでもないことになるのは目に見えている。

 しかし、それを承知の上ではっきりと言い切ったお力を相手に、男はますます興味を引かれて楽しくなってきたのか、身を乗り出して自分の太ももに片肘をついた。

「そうか、そのやり方はそういうものなのか。それなら、これまでのことを話して聞かせろ。お前ほどの女ならば、さぞかし人を驚かせる過去があるに違いないはずだ。ごく普通の娘だったとは思えない。どうだ、その通りであろう」

 しかしお力はひょうひょうとしたもので、浮かべた笑みをそのままに、片手を結い髪に当てて軽く撫でる。

「さあ、よくご覧なさってくださいませ。まだどちらの髪の間にも角は生えておりませんし、生やしてもおりません。それほど多くを語れるほど長い時は生きておりませんので、お話しできるものなどありませんよ」と、耳に近い生え際を交互に見せながら、ころころと綺麗に笑うのを見て、男は「そんな笑顔一つで言い逃れしようとするな」と低い声で眉をひそめた。

 怒ってはいないようだが、「嘘偽りのない娘時代を話して聞かせろ。生まれも育ちも言えないのなら、こんな店で働いている目的でもいいから言え」と言ってお力を責める。

 強い言葉にお力は困った顔をして俯き、「難しいことですねえ」と答えた。

「それを話してしまったら、あなたはびっくりなさってしまうでしょうね。天下を望むおおとものくろぬしとは、私のことですから」

 本気でそう言っているわけではないのに、なぜか彼女が言うとしっくりくるから不思議なものだ。

 しかも、三味線のときぶしで演じられる『せき』を引用してきたので、内容を知っている男は驚いたに違いない。

 歌舞伎でも演じられたことがある『関の扉』は、遊女・すみぞめとして実体化した桜の精の復讐劇だ。

 大伴黒主に恋人を殺された墨染が恨みを晴らすために、天下を狙う大伴黒主と偽りの恋の駆け引きを行い、互いの正体を知ったことで最後には激しく争い合うという内容のものだ。

 壮大な物語の一部分でありながら、後世にまで残るこの話は有名で、大伴黒主がおうさかせきせきもりせきと名乗って暗躍していて、悪役として彼を語る上で外せない代表作ともいえる。

 今となっては大伴黒主の人となりは知るよしもないが、物語の中の彼を引き合いに出したのは彼女なりの冗談なのだろう。

 教養の深さにますます魅力を感じた男も「それなら俺は悪代官だ」と冗談を言うが、お力は笑って「ご冗談を」と受け流した。

 二人揃って本当のことを言わないため、いつまで経っても話は進まず、とうとう男は笑うのをやめた。

「これでは埒があかないな。そのような冗談ばかり言うのではなく、少しでいいから胸の内を聞かせてくれ。全てをとは言わん。だが、嘘ばかりはもうたくさんだ」

「そう言われましても……」

「いいや、話してもらう。どうやって毎日を過ごしているのかは知らんが、嘘つきなことに変わりはないだろう。だが、それだけではないはずだ。偽りでしか生きられない日々を送っていても、どこかに嘘偽りのない気持ちが交じるはず。それをお前の口から聞きたいのだ」

 お力は俯いて男から顔を背けた。

 しかし男は譲らず、その横顔を見ながら質問をする。

「夫は――恋人はいたのか。それとも、ここにいるのは親が原因なのか」

 冗談だけでは済ませてくれない様子に、お力は悲しくなった。

 他の男であれば「仕方がないな」と引き下がってもらえるのに、この男は何を言っても諦めようとしない。

 性分なのか意地の悪い性格なのか、女の過去を聞いてはいけないという暗黙の了解すら無視しようというのだ。

 特にこういった仕事をする女は、誰もが人に言えない過去を引きずっている。

 遊郭の女であっても、岡場所の女であってもだ。

 互いに知らないふりをして、誰でもない男女として一夜の恋をするのが一種の礼儀だというのに、この男はそれを知らないのか、真面目な顔で聞いてくるのだ。




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