第九話


「……こんな私でも、あなたと同じ人間であります。男と女の差はあれど、少しは心の奥底に残る経験も、胸に染み渡って拭い去れない気持ちだってあるのです」

 何かに耐えるようにおりきは答えるが、男は「そんな話を聞きたいんじゃない。どんな生き方をしてきたのか、僕が興味を持つ話をしてもらいたいんだ」と続けさせる。

 言葉の裏にある拒絶に気づかない男に、お力は握った着物の裾に皺を作りながら俯く。

 感情のままに唇を噛み締めたくなったが、相手は客だと自分に言い聞かせて何とか口を開いた。

「……親は早くに亡くなってしまい、今は私だけです。残っているのはこの手足ばかりで、他に何もありません。それでも、こんな私を女房にしたいと言ってくださる人がいないわけではありませんが、これまで夫も恋人もできたことはありません。どうせ私は卑しい立場で育ってしまった身の上なので、こんな仕事をして一生を終えるのでございましょうよ」

 何もかも諦めたように紡がれた言葉の裏には、彼女の計り知れない心の内が溢れかえるほど満ちていて、美しくもなまめかしく男を魅了するような姿はそれっぽく見えるのに、どこかいびつに感じる。

 多情な女と呼ぶにふさわしいかと思ったが、男は喉の奥に引っかかって口には出せなかった。

 つい先ほどまで、自分のそばに控えるようなしおらしい態度のお力を見た男は、騙されるなと自分に言い聞かせ、彼女に笑みを向ける。

「何も、卑しく育ったからといって、夫を持たずに独り身を貫かなければならないわけではないだろう。とりわけお前のような美しい女ならば、夢など見ずとも現実にできるだろうに。それこそ、一足飛びで玉の輿にも乗れそうなものなのになあ。それとも、そんな特別扱いは嫌か。誰かの奥様になってチヤホヤされて、人並みの待遇を受けて生きることがなんとなく気に食わずにそんな話をするのか。詰まるところ、その威勢の良い気性に合ったさんじゃくおびの方が好みに合うのだろうな」

 問いかけるように笑うその顔には、彼女を小馬鹿するような嫌なものが混ざっている。

 こういった仕事に対しての嫌味というよりも、家庭に入ることを嫌がる女に対しての嫌悪なのだろうか。

 まだまだ女が仕事をして社会に出て行くというのは抵抗があり、一般的にも嫌な顔をされることが多い。

 それにしたって、たとえに男向きの帯を使うのはいかなものかと、お力は男を上目で見た。

 三尺帯というのは、大工などの職人が使うぬぐいが元になった帯のことで、裁縫用のくじらじゃくで測った長さで使われる。

 しごかれてふにゃふにゃになった綿めんを一・一メートル程度の長さにしたもので、男女ともに腰をひときもできないものではあるけれど、簡単に締められてほどけにくいためよく使用されている。

 しかしこの言葉には、威勢がよくおとこのある気性のいさはだを意味する一方で、簡単に帯を解きやすいためか、遊び人という意味で用いられることもあるのだ。

 お力はようやく言葉の裏に気がついて言い返そうとしたが、二階へ上がってくる足音で止められてしまい、開きかけた口は閉じてしまう。

 黙って足音が去るのを待とうとしたが、ゆっくりと二階に上がってきた誰かがお力達のいる部屋の前で止まった。

「力ちゃん。今大丈夫かい」

 おたかが襖越しに尋ねる。

「……ああ、大丈夫だよ。どうしたの」

 お力は男から目を離さずに答えると、お高は襖に顔を近づけているのか、部屋の中にもはっきりと聞こえる声で告げた。

「今ね、あの人が来てるんだよ。あんたを出せって、会わせろって言ってるんだ。どうする」

 男は口元を引き締め、お高の声に耳を澄ませる。

 お力も緊張しているのか、肩が少し上がっているように見える。

 しかし中の様子が見えないお高は、「ねえ、どうする。中へ入れるかい」と言ってきたので、お力は「いや、帰していいよ」と答えるしかない。

「今は新しい客が来てるから、相手できないんだ。悪いけど、高ちゃんから断ってくれないか」

「……そうかい。うん、そうしておくよ。ごめんね」

 おそらくお高は、げんしちが優先されるとでも思ったのだろう。

 ここまで会いに来てくれた昔からの馴染みであるし、お力にとっては手紙を送るほどの相手なのだ。

 仲介役にでもなったつもりでいたのだろうが、お力は元から会う気がないらしく、どこかつまらなそうな男の顔を見ずに、もう一度「帰ってもらって」と冷たく言った。

「わかったよ……何かあったら、呼んでおくれよ」

 お高は不満そうに、声に残念がる気持ちを乗せて返事をすると、来た時よりもゆっくりと静かに戻っていった。

 男は何も言わずお力を見るが、お力は少しだけ手のひらを握り締め笑う。

「あなた様の言う通り、どうせ私は遊び相手で終わるのがオチなのでしょうね。へんに夢を見るよりも、それで妥協するのが良いのでございましょうよ。私が思うような理想を伝えては、相手になるお方が嫌になってしまいますし、嫁に来いと言ってくださるお方を私が気に入らないかもしれません。浮ついていて軽薄な女だとお思いになるでしょうが、その日限りの相手としか思えませんから、それ以上でもそれ以下でもないのです。一夜明けると見送って、それきりになるのでございます」

 にこりと綺麗に笑う彼女を男は無言で見るが、その目は「また誤魔化す気か」と苛立っているようだった。

 うつわの酒を一気にあおり、空の器を差し出しながら彼女を睨めば、二人の話はまだ続いていく。

「いいや、自分は独り身で良いだとか、誰にも相手にされない哀れな女だなどとは言わせんぞ。夫になるような相手がいないわけではないだろう。つい先ほども、店先でどこかの誰かがお前によろしく言っていたと伝えに女が一人、ここへ上がって来たではないか。その話を受けていれば、近々お前に良いことが起こり、僕へ話せるものができるのではないのか。どうだ?」

 男は酒を注がれながらお力を見つめ、視線を逸らさずに「当たっているだろう?」と得意げに聞いてくる。

 お力も負けじと「何もありませんよ」だとか「さて何のことやら」と相槌を打ちながら答えるが、襖一枚を隔てた会話を聞かれた以上、誤魔化すことはできないと諦めてしまった。

「ああ、あなたもしつこく詮索なさります。私にとって馴染みの客というのは、たいして珍しくもないわらばんや新聞の一面と同じですよ。彼らの顔や話などは、新聞で堂々と飾られる一面の、次から次へと移り変わっていく内容と同じなんです」

 そこで初めて、お力が男と目を合わせた。

「……初めて会ってそれっきり。何度会っても違う世界の人間で、手紙のやり取りはあれど、間違いだらけの紙に中身なんてない文章が付け足されただけの、不要な交換だけ。書けと言われれば、神仏に誓うしょうもんでも誓いの言葉を書くせいでも、お望み通りにして差し上げましょう。けれど夫婦になる約束をしたとしても、私の方から約束を破ることが前提というよりは、相手方の覚悟が最初からありません。いいえ、そもそも約束など、最初からする気がないんですよ」

 そこで男は体勢を軽く変え、前のめりの体を少し起こした。

 お力はフッと笑うと、部屋の隅を見ながら話を続ける。

「仕える主人がいるというのならば主人を恐れ、両親が揃っているのならば、逆らえずに親の言いなりになるしかない。それでも振り向いて私を見てくれないならば、私の方から追いかけていって袖を掴もうとしても掴めないんです。そういうことならもう諦めろと自分に言い聞かせて、その人とは最後になるのです。相手がどれほどいても、自分の一生を預けられるほど、心から信じられる人がいないのでございます」

 そこまで一気に話した彼女は、部屋の隅からさらに遠くを見つめるように視線を上げていく。

 男はその横顔を見ながら酒を一口あおると、彼女の不安と頼りなさを感じつつも小さく笑った。



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