第七話


 客になる男が捕まらず、往来する人すらいないある日。

 またばんかとうんざりした顔で店の中から表を見ていたおたかだったが、近くに人がいないのをこれさいわいにとおりきに声をかけた。

「ねえ力ちゃん。あんたの事だから、男一人に何があっても気にしないのが普通だろうけど、今のあんたを見てると身につまされるし、それを知らないげんさんの事だって気になるんだ」

「なんだい。とうとつだね」

 キセルを手にしたお力は笑うが、お高は真剣だ。

 煙を吐くお力は相変わらずの他人事だが、お高はことのように続ける。

「そりゃあ、あの人だって今の身分に落ちぶれてしまったのなら、あんたにとって全く相手にならない客になってしまったけれども、それでも好き合ってたんならしょうがないじゃないか。年が違おうが、向こうに子供がいようがさ。ねえ、そうじゃないのかい」

 お高は訴えかけるように言うが、お力は聞いているのか聞いていないのか。

 キセルを手に別の事を考えているといった態度を取るため、お高はだんだんと苛立ってきた。

 しかしここで苛立ちに任せ、感情のまま引き下がってはいつものことだと、息を吸って心を落ち着ける。

「……あの人に奥さんがいるといっても、所詮は親の決めたことだったんだろう。あんただって、源さんに奥さんがいると知っても、それでも好きだったんじゃないのかい。それくらい思い合っていた相手と、そんな簡単に別れられるわけがないよ。誰にも構うことはない、店に呼び出してやりな。そこら辺の女が男一人捕まえて、『あんたは私のものだよ』なんて強気に出たら、どんな野郎だって胸の底から心変わりして、顔を見ただけで逃げ出すんだから、それはそれで仕方のないことだ。そうなったらもう、『どうせ私なんか、その程度さ』と諦めた気持ちで、また別の男に乗りかえるだけのことだが、あんたは――いや、あんた達の関係は違う」

 じっと目を見てお高は話すが、お力は目を合わせない。

 明らかにこの話題を避けているのはわかっているけれど、それで話を終わらせられるほど、お高はお力に対して薄情ではなかった。

「あんたが望むなら、考え方ひとつで今の奥さんにくだりはんを渡して別れさせられるけれど、あんたは気位が高いから、今の身分じゃそこまで思わない。源さんと一緒に添い遂げようとも思わないだろうね。そんなんだから、いつまで経っても男一人忘れられずいるのだろうけど、昔の男ならなおさら店に呼ぶだけのことで理由も理屈もいるものか。手紙を書きな。今すぐに。今にかわようきが味噌だの醤油だの酒だのと注文を取りに来るだろうから、いつも来るでっぞうにでも頼んで、使いをやらせるといいさ。あの子だって駄賃のあるなしでやる気が変わるだろうけど、そこはあんたに任せるからさ」

 お高はそう言うが、お力は相変わらずの知らんぷりだ。

 聞こえているはずなのに聞こえないふりをしているのは丸わかりで、時折その目が泳いで遠くを見ようとするのだから、お高の言葉に熱が入る。

「何を迷っているんだい。遠慮なんかしてる場合じゃないんだよ。それほど良い身分でも、どっかの偉いお嬢様でもあるまいし、奥さんや子供に遠慮するだけ遠慮して、あの人を諦めるので許してくださいと言って悪者になろうとしてないかい。それで終わりじゃ駄目なんだよ。あんたは諦めが早すぎるからよくない。すぐに諦めて人の都合に合わせるから駄目なんだ。とにかく源さんに手紙を送ってみな。このまま音沙汰がないんじゃあ、源さんも可哀想じゃないか」

 なるべく丁寧に考えを伝えたが、お力はキセル掃除に夢中なのか、俯いたまま何も答えなかった。

 話し終えて彼女を見たお高は少し呆れてしまったが、それが彼女なりの拒絶だということを知っている。

 そうやってキセルのがんくびを綺麗に拭いていっぷく吸うと、煙の出が気に入らないのかの部分を手の平でポンとはたき、雁首にあるタバコを地面に落とす。

 そうやってまたキセルを吸いながら雁首にタバコを入れて火をつけると、満足そうに煙を吐き出しながらキセルを口から離した。

 それを見ていたお高は「本当に聞いていなかったのか」と思ったが、お力は自分のキセルをお高に渡しながら笑みを浮かべて彼女に注意をした。

「気をつけておくれ。店先でそんなことを言われると人聞きが悪いじゃないか。『菊の井』のお力は、かたの手伝いをして日銭を稼ぐ男をじょうにしている、なんて話が広まったら、他の客に思い違いをされてしまう。そんなことになったらどうしてくれるんだ。さいわい店の中だし、人もいないからいいけれど、本当に気をつけておくれよ」

 そう言われてハッとし、周囲を見回すと、確かにここは店先だと思い出した。

 お高は「ごめん」と小さく謝るが、やはりこれで終わりにはしたくない。

 もう一度謝って話を続けようとしたが、お力は自慢の笑顔でそれを止めた。

「それは昔の夢さ。夢だから現実じゃない。それだけのことなんだよ」

「お力ちゃん……」

 人が見れば惚れてしまうほどの笑みだが、お高は知っていた。

 その笑みにどれほどの涙を隠しているのかということを。

 ここで話を続けても、彼女はきっと本音を言わないだろうし、話だってまともに聞こうとしないこともわかっている。

 しかしそれでも口を出してしまうのは、ただのお節介なのだろうかとお高は思い始めた。

 悩むそぶりを見せ始める彼女に、お力は優しい声で言う。

「そう悩まないでおくれよ。今はもう忘れてしまって、げんなのかしちなのか、名前すら思い出せないんだ。そんなに気にしなくても、もうとっくに吹っ切れてるよ。さあ、この話はお終いだ。やめやめ」

 明るい口調でお力が立ち上がる時、表を通るおびの一団が目に入った。

 どうやら仲間達で集まって遊びに来たのか、結んだ帯のように可愛らしく、まだ幼さが残る男達ばかりが通り過ぎようとしていた。

 リボン結びのようなヒラヒラした帯が目を惹き、お高もひとれとなった彼らを品定めするように見ている。

 立ち上がったお力は敷居近くまで行くと、「おや、石川さんと村岡さん」と見知った顔に呼びかける。

「二人ともどこへ行きなさる。お力の店をお忘れになったか。それとも私のことなど忘れてしまわれたのかね」と声をかけると、名前を呼ばれた二人がこちらを見た。

「やあ、お力じゃないか。相変わらずごうけつなおこえかりだな。お前に名前を呼ばれたのなら、このまま素通りするのは野暮ってものだ。どれ、お呼ばれしてみるかな」と言って、ズイッと店の中へ入ってくると、店の中が急に騒がしくなった。

 石川達の連れも次々と入ってきて草履やら下駄やらを脱ぐと、バタバタと足音を立てながら廊下の奥へと向かい、静かだった店が途端に活気づいてくる。

 あっという間に人が増えた奥の広間では、女達が我先にと男達の隣に座り、自分の客を得ようと笑みを浮かべて甘え出す。

 今宵の相手に選ばれた女達が笑顔で身をよりかけるようになった頃、石川と村岡が空いた席に座り、どこからともなく「姉さん、おちょう」と声がかかった。

 お力が「酒のさかなは何がいい」と答えれば、それぞれが好きな品を注文し、店先の厨房も忙しくなる。

 酒と肴が揃うと三味線の音が景気良く聞こえ出し、入り乱れてせわしなかった足音が聞こえなくなる。

 そうして女達の声が闇に聞こえ出す頃には、同じ闇の中に男達の姿も消えていき、かすれるようなか細い声だけが静かに響き出すと、ようやくこの店の夜が始まるのだ。

 店が終わるまでの時間、遠くでは赤ん坊の泣き声がする。

 そんな幻聴を聴きながら、女達は今宵も男の腕に抱かれ闇を見るのだった。




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