第十三話


 能の話に『ももがよい』というものがある。

 絶世の美女と噂のののまちに恋をしたふかくさのしょうしょうという男が、なんとしても小町を妻に迎えたいと、熱心に彼女が住むやしきへと通っていた。

 しかし少将のことを疎ましく思っていた小町は、「毎夜一日も休まずに、ひゃくにち通っていただけたら貴方の妻になります」という約束をした。

『あなたの想いが本物であれば、ひゃくくらい簡単でございましょう。百夜の間、一日も休まずに私のところへ通えたのならば、その想いを信じ、あなたの妻になることを承知します。ですが、断れない用事があろうと病気にかかろうと、一日でも休むことは許しません。代役や使いの方を寄越しても駄目です。一日も休まずに貴方自身が私の元へ来てくれること。これが条件です』

『簡単なことですよ。いかに私が貴女を愛しているのか、この百夜の間にお聞かせいたしましょう。百夜になる頃には、貴女は私のことを見直して、愛してくれていると信じております。その時こそ、貴女は私の妻となるのです』

 条件付きとはいえ、少将は喜んでその約束を果たそうと張り切るのだが、小町が住んでいるのはみやこからかなり離れた場所で、彼が毎日通うには無理のある距離だった。

 それでも小町を諦めきれない少将は、無理を承知で毎日休まずに通ったものの、体調が悪い時に無理をしたことが原因となり、雪が降る九十九夜で諦めざるを得なくなってしまった。

 そのまま少将は病に倒れて亡くなり、訃報を聞いた小町はそれを喜んだというが、これは美女ならではの傲慢さと冷酷さが招いた悲劇として、今も語り継がれているものだ。

 ちなみにこの『百夜通い』は、史実ではない。

 さるがくでありのうさっとしても有名ななどが創作した作品で、あまりにも有名で真実味があるため、本当のことのように思われているだけの話だ。

 一般的に広まった内容としては、美しい盛りの小町ではなく、老いて貧しい暮らしを送っていることを前提にしているため、というべきか、男でも共感できる部分が多いものでもあるため、知っている人は意外に多いらしい。

 それをお力が出してきたことに男は笑い、「なんだ、お前は小野小町にでもなるつもりなのか」と言ってきたが、お力は「なんの、そんなものでは終わりませんよ」と笑い返したのだ。

「この『菊の井』のお力は、枠に嵌まった生き方をする女ではありません。ただの女のように、いつも同じだとは思わないでくださいませ。それこそ、いつまでも同じような姿でいられるわけがありません」

 そう言って微笑みながら「変わることだってありますよ」とも言うので、男は笑うのも忘れて呆気に取られたようだった。

 男が黙っている間に帽子をかぶせたお力は、奥まで聞こえる声で「旦那がおかえりになります」と言った。

 声を聞いた店の女達は、外で暇を潰していた人達も含めて店先に集まってくる。

 帳場にいた女主人も駆け出してきて、低い姿勢で男に「お帰りですか」と聞いてくるので、お力がさりげなく男の財布を渡せば、笑顔で受け取り会計を始めた。

「……ああそうだ、忘れるところだった。お力との約束で、財布の中身は全て店に置いていく。今日の分から引いて余ったものは、好きにするといい」

 お力の後ろでそう言った男は、笑うことこそなかったが、怒っているわけでも呆れているわけでもない。

 ただ淡々とそう言うと、女主人から満面の笑みを向けられて少し顔をらせたくらいだ。

 慣れた様子で会計を終わらせた女主人は、腰を低くしたまま「ただいまは御祝儀をありがとうございます」と礼を言う。

 すると店先に集まった女達も、「ありがとうございます」と声を揃えてお礼を言うので、「今日は楽しかったから、その礼だ」と男は微笑んだ。

「ああ、頼んでいた車が来たな」

 頭にかぶせた帽子を手で押さえながら外へ出ると、小雨が降りしきる中、男は店の前で足早に人力車に乗り込んで座り、雨除けの帽子をかぶったしゃへ行き先を告げる。

 その間に女主人は店中の人間を外へ出して男を見送らせようとしたが、人力車はあっという間に遠ざかっていった。

 小さくなっていく車の後ろに向かって「またのおいでを待っています」などと、女達は笑顔と大声で人当たりのいい言葉を叫ぶが、当然ながら男の返事はなかった。

 車が見えなくなると雨が落ち着いてきたので、女達は一人二人と外へ出たまま客引きをしようとしたが、右を向こうが左を向こうが人の通りはない。

 物好きな金持ちがもう一人通りかからないかと期待する若い娘達を見て、女主人が「馬鹿な子達だね」と苦笑い。

 その通りだとうなずく三十前後の女達は、今日の仕事はもう終わりだとそれぞれ行動し始める。

 誰かが「あの旦那、人力車で濡れないのかね」と笑い出すと、また誰かが「いい男ってのは濡れてもいい男なんだよ」と笑い返した。

 すっかり仕事気分が抜けた女達を見て、今日はもう店じまいだと言い出す女主人は、店中の女達を奥の広間に集め、先ほどいただいた会計の余りを配り出したので、女達が一斉にざわつきだした。

「お力のおかげで今日は充分稼げたんだ。みんな、後でお力にお礼を言いなよ」

 いつもならば酒の一杯か、おかず一品で終わる『御祝儀』なのだが、きちんと本物で渡された御祝儀に受け取ったみんなが目を丸くする。

 ほとんど初めて受け取る若い娘達は、さっさと準備部屋へ言ってしまったお力の功績に喜び、その日はお力と顔を合わせるたびにお礼を言ったというのだから、現金なものだ。

 お力は「気にしないでいいよ」と笑って受け流し、自分の手柄だとは思っていないようだ。

 しかし女達のお礼の言葉は止まることがなく、しまいにはお力をおがんだというのだからたいしたものだ。

「神様、旦那様、力ちゃんだいみょうじんさま。なんと言っても、この力ちゃん大明神様にありがとうだよ」

 そんな言葉がしばらく続き、『御祝儀』という名の熱気が冷めるまで、お力にはお礼の言葉が途切れなかったらしい。

 その裏で、みんなより多めに『御祝儀』をいただいたお高が、しばらくの間お力に対していつも以上に優しかったという話は、誰も知らない。




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