第十二話


「これさえ頂ければなによりですので、他には必要ありません」

 そう言って指を入れたおびの間から取り出したのは、男の名前が書かれた名刺だった。

 お力がそれを、男から頂くような振る舞いをすれば、「いつの間に財布から引き出した」と驚かれた。

「いや、名刺の一つや二つ、どうということはないが、お前がそれを欲しがるのであればタダでとは言えないな。名刺との交換で、お前の写真をくれ」

 最近流行り出した写真というものは、美人をいつでも見られると評判の紙のことだ。

 この辺りでも撮れる場所があり、写真屋と呼ばれる店まで行けば綺麗に撮ってもらえるため、酌婦も客寄せにと行くことがある。

 お力は常連ではないものの、店の前に飾らせて欲しいとたびたび店主にせがまれるため、「他のを紹介しますよ」とそのたびに断っていた。

 店に来る客の中にも写真を欲しがる男はたまにいるが、この男は特にしつこくて、何度も何度もせがんでくるため、お力はニコリと笑って帯の間に名刺を戻した。

「この次の土曜日に店まで来てくだされば、知り合いの写真屋までお連れいたします。そこでご一緒に写していただきましょう」

 そうすれば、いつでも一緒にいられますねと言う彼女に対し、男は「お前だけが写っている写真が欲しいのだ」と譲らない。

 お力は「どうせなら二人一緒の写真が良いではありませんか」と笑うだけだ。

 のらりくらりと話をかわす彼女に負けたのか、男は「必ずだぞ」と不満げに言って盆の上の酒をあおる。

 そのうち帰る時間だと人力車を頼むので、お力は廊下に顔を出して下にいる人に車を呼んでもらうと、あとは興味がなくなったという顔で男に酒を注ぐだけだった。

 そろそろかと男が立ち上がるので、お力は「もうお帰りですか」と寂しさのかけらもない声で尋ねるが、男は何も答えない。

 引き止める気などほとんどないお力も、近くにたたんでおいた羽織を手に、男の後ろに回り、広い背中に上質の羽織を着せていく。

 無言の中で先に唇を動かしたのは、お力の方だった。

「今日は失礼をいたしました」

 先ほどまで男に興味がない様子だったのに、その声は寂しさと申し訳なさが滲んでいて、しかも切なそうに謝ってくるのだ。

 男が振り返ると、お力は寂しそうな顔で男を見上げていて、あまりの変わりように男も戸惑う。

「いや、気にするな」

 視線をそらしながら男がそう言うと、お力は微笑んで「ありがとうございます」と安心した様子で答えた。

 男はすぐに帰ろうと思っていたものの、悲しげな女を残すのはいかなものかと考え始める。

 幸いにもここは泊まることができる店で、すでに布団まで敷かれているのだ。

 さすがに初対面で関係を持とうとは思わないが、もう少しだけ一緒にいてもいいかもしれない。

 そう思ったのと同時に「またのおいでを待っています」とお力が言うので、男も「いや、そこまで言うなら、僕も少しは考えてみようじゃないか」と返事をしたところで、何かがおかしいことに気がついた。

 客が帰るのを悲しがる女が、相手に向かって「またのおいでを」などと言うだろうか。

 そこでそらしていた視線をお力に向ければ、彼女は悪戯いたずらが成功した子供のようにすがすがしく笑っていたのだ。

「今日は素晴らしいお土産と一緒に、次の約束もできて嬉しかったです。またお会いした時にでもお礼をいたします」

 あまりにも綺麗に笑う彼女に、男は呆気に取られた顔を見せながらも、すぐに「おい、調子のいいことを言うな」と笑いながら怒り出した。

「いいえ、旦那様。約束は約束でございましょう。次は写真でも宿泊でもお受けいたしますので、ぜひともお越しくださいませ」

「こいつ。なんて女だ、まったく」

 羽織を着せて前を締めた時にはもう、二人の顔には笑顔があり、男は「口先だけの誓いにされるのはごめんだ」と言うので、お力は「そうはいたしませんよ。私だってまちほど冷酷ではありませんから」と笑い、男の後を追う。

 彼女の手には男の帽子があり、男は文句を言いつつも楽しげに降りていくので、お力も笑いながら追いかけてすがりつき、「嘘か誠か、九十九夜の辛抱をなさってください」と後ろ姿に向かって言い出した。

 


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