最終話
――酌婦が一人死んだ。
その噂は
道を歩く男達の耳にも、やれ「女の方が悪い」、やれ「男の方が悪い」と、それぞれの考えをぶつけながら、最後には「自業自得だ」と嘲笑う声が聞こえてくる。
それを通りすがりに聞いていた青年は、前を行く男の背後で声の
「……ただの酌婦だったっていうのに、すごいですよね」
風を切るマントが
青年には聞こえないほどの小さなため息が、暑くなり始めた空気に溶けると、冴え渡る空が道の先へと続いていく。
建物の隙間からでもよく見える空に気を取られていると、どこからか低い声で呼ばれた気がした。
人が
「……お
しゃがれてはいるが、まだ若い女の声。
隣には幼い子供がぐったりと女に身を預け、
男は、制服の
「ちょっと、先輩っ!」
驚いた青年が
驚いて目を見開く女が感謝する声を背に、青年が
「物乞いなんて、今時、珍しくもなんともないのに、なんであんな
人の多い場所に物乞いがいることは、確かに珍しくもないことだ。
物乞いをしなければならないほどに、
気まぐれな
彼の知り合いだったのか、それとも、ただの気まぐれだったのか。
歩きながら、
山を管理している寺の
あちこちの
ただでさえ
今では、寺の者以外が足を踏み入れることがなくなってしまった場所に、二人は足を踏み入れた。
男が、浅くかぶっていた帽子の
明らかに空気が変わった周囲に警戒しつつ、突然現れた気配の方向を探りながら視線を
「せ、先輩! あれっ、あれえっ!」
情けないほどに震える青年が、林の奥を指さす。
木々の隙間から、ぼうっと浮かび上がる光が見えた。
光は人の形に近く、ゆらゆらと
「え? 消えた?」
青年が驚いて一歩踏み出すと、彼らを
一瞬とはいえ、息もできないほどの
薄暗い森の中で刀を構えつつ、鋭い目つきで周囲を見回すが、風ごと気配が消えてしまったようだ。
数分か、数秒か。
時間の感覚もわからなくなるほど集中して警戒し、周囲を探ったものの、目にした人型の光は二度と現れず、自分達以外の気配も感じられない。
男が刀を納め、青年も緊張を
「……やはり、正体を現しませんでしたか」
老人と呼べるほど年老いた住職が言うと、男は「ええ」と答え、「何も分かりませんでした」と続ける。
「かろうじて、人の霊だということは確認できましたが、残念ながら、男か女か……詳しいところまでは
「そうですか……。いいえ、それでも、姿を見せてくれただけでも良かったと思います。寺の者達であれば、そういった
「あれに
「いいえ、ご心配には
深いシワが
道すがら、寺のことや町のことを話していた住職は、ふと、何かを思い出したように立ち止まった。
「……ずいぶん昔のことになりますが、この山で人が死んでおりましてね。だいぶ
「例の、酌婦のことですか?」
青年が尋ねると、住職は深くうなずく。
「まだ私が若かった頃ですから、二十年か三十年か、それくらい前でしょうね。寺の敷地内で、見知らぬ男女がお亡くなりになっておりまして、亡くなられた女性を、私どもの寺で
「女性の客だったという男性が、全て負担したそうなのです。当時の私は
しみじみと、当時を思い出している住職の話に、青年は眉をひそめる。
「ただの客が、酌婦の葬式を……ですか? ずいぶんと、
信じられないと言いたげな顔だが、住職は微笑み、「それほど、情が深かったようですよ」と青年に言った。
「それがどうやら、喪主をされた男性の方が、亡くなられた女性を
住職は温かい目で、黙ったままの男を見た。
「彼女の葬儀で、その男性を見ましたが、とても優しい方でしたよ」
男は何も答えない。
「悲しみながらも、最後まできちんとやり通し、骨まで拾っておられましたから、よく覚えております」
「……きっと、その男性は、若かったのでしょう。相手が誰であれ、
静かに微笑む男に、住職は笑顔を返し、「そうでしょうね」と優しい目をした。
「さて、そろそろ寺に着きますね。日暮れまで時間がありますし、私の
「では、お言葉に甘えさせていただきます」
青年が答えると、住職は微笑みながら寺の門をくぐった。
住職に続き、男が門をくぐろうとした時、風に乗って声が聞こえた。
懐かしい声に立ち止まった男は、声のした方を向いて、その人物を探し始める。
先に門をくぐってしまった青年が振り返っても、まだ声の
「仕事熱心なのはいいですけれど、寺に来た時くらいは、
「いや、これは」
「そうやって、また
疲れた声でそう言った青年は、「ほら、早く行きましょう」と男を
すでに住職は本堂の中に入っていて、坊主の一人が
声のした方を振り返ったが、後ろ髪を引かれる気持ちで顔を
「……たまには、寄り道もいいものだな」
「やっとわかってくれましたか。よかった~。ほら、早く行きましょう。ね?」
嬉しそうな青年を追いながら、男は小さく呟く。
「……その
ふと立ち止まった男は空を見上げる。
そして、悔しそうに眉をひそめ、泣き出しそうな顔で暮れゆく空を見つめた。
「だから、出世は望むなと……言ったではないか……」
――男が見上げた場所に、うっすらと光の線が現れる。
しばらくの間、その場を
それからも、その山では光る何かを目撃する声が
『にごりえ』 逢雲千生 @houn_itsuki
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