最終話


 ――酌婦が一人死んだ。

 その噂はまたたに新開を飛び出し、おもてを生きる人々の耳へと、流れるように入っていく。

 しんじゅうだと騒ぎ立てる者、いちな想いの成れの果てだと感動する者、女のごうとくだとあざわらう者。

 ひとたびくちを開けば、人と人との間に飛び交うのは、かつて有名だった女の『偽りと真実うわさ』ばかりだ。

 道を歩く男達の耳にも、やれ「女の方が悪い」、やれ「男の方が悪い」と、それぞれの考えをぶつけながら、最後には「自業自得だ」と嘲笑う声が聞こえてくる。

 それを通りすがりに聞いていた青年は、前を行く男の背後で声のぬしたちを振り返り、整った眉を綺麗にゆがめた。

「……ただの酌婦だったっていうのに、すごいですよね」

 いやったらしく青年が呟くと、先を歩く男は「そうか?」と答えるだけで、振り向こうともしない。

 風を切るマントがしい二人の男に、道をう人々が視線をそらす中、男はため息を漏らす。

 青年には聞こえないほどの小さなため息が、暑くなり始めた空気に溶けると、冴え渡る空が道の先へと続いていく。

 建物の隙間からでもよく見える空に気を取られていると、どこからか低い声で呼ばれた気がした。

 人がけて出来た隙間から、ものいに見つかった二人は、ふちのかけた茶碗を差し出されて歩みを止める。

「……おを」

 しゃがれてはいるが、まだ若い女の声。

 隣には幼い子供がぐったりと女に身を預け、どうだにしていない。

 男は、制服のふところから財布を取り出すと、持っていたおさつを全て女に渡した。

「ちょっと、先輩っ!」

 驚いた青年がとっに声をかけたが、男は「取っておけ」と茶碗の中におさつをねじ込み、そのまま歩いて行ってしまった。

 驚いて目を見開く女が感謝する声を背に、青年がはやあしで男に追いつくと、「何やってるんですかっ」と苛立ちを含めて言う。

「物乞いなんて、今時、珍しくもなんともないのに、なんであんなほどこしをするんですか? 一日二日がひと月にびたところで、あの子供はもう、駄目じゃないですか」

 人の多い場所に物乞いがいることは、確かに珍しくもないことだ。

 物乞いをしなければならないほどに、こんきゅうしている親を持つ幼い子供が、わずかな食事で数日びたところで、無駄に苦しむだけだと言うことは、新人の青年ですら理解している。

 気まぐれなぜんが、相手に苦しみを与えることもあるのだと、目の前を歩く男がずっと前に言っていたというのに、その本人があんなことをするなんて、何を考えているのだろうか。

 彼の知り合いだったのか、それとも、ただの気まぐれだったのか。

 歩きながら、りと聞いてくる青年をあしらいながら、男は、だかい山の上にあるけいだいへと、あしばやに歩みを進めていく。

 山を管理している寺のじゅうしょくと、数人のぼうだけがいる山は荒れかけていて、昔は大勢の人がいたらしいのだが、今ははいすんぜんだ。

 あちこちのくさが伸び放題なのは、仕方のないことなのだろう。

 ただでさえで、幽霊やら妖怪やらの噂が絶えない場所だというのに、そこへ、例のしんじゅうけんだ。

 今では、寺の者以外が足を踏み入れることがなくなってしまった場所に、二人は足を踏み入れた。

 男が、浅くかぶっていた帽子のつばを指でつかむ。

 明らかに空気が変わった周囲に警戒しつつ、突然現れた気配の方向を探りながら視線をめぐらせていると、青年が悲鳴を上げた。

「せ、先輩! あれっ、あれえっ!」

 情けないほどに震える青年が、林の奥を指さす。

 木々の隙間から、ぼうっと浮かび上がる光が見えた。

 光は人の形に近く、ゆらゆらとざんぞうのように揺らめいたかと思えば、かすみのようにふらりと消えていった。

「え? 消えた?」

 青年が驚いて一歩踏み出すと、彼らをとっぷうが襲う。

 一瞬とはいえ、息もできないほどのきょうふうに叩かれた二人は、帽子を飛ばされないように手で強く押さえ、いた方の手で、腰に下げた刀を引き抜くことが精一杯だった。

 薄暗い森の中で刀を構えつつ、鋭い目つきで周囲を見回すが、風ごと気配が消えてしまったようだ。

 数分か、数秒か。

 時間の感覚もわからなくなるほど集中して警戒し、周囲を探ったものの、目にした人型の光は二度と現れず、自分達以外の気配も感じられない。

 男が刀を納め、青年も緊張をいて刀を納めたところで、離れたところから声がかかった。

「……やはり、正体を現しませんでしたか」

 老人と呼べるほど年老いた住職が言うと、男は「ええ」と答え、「何も分かりませんでした」と続ける。

「かろうじて、人の霊だということは確認できましたが、残念ながら、男か女か……詳しいところまではさぐれませんでした」

「そうですか……。いいえ、それでも、姿を見せてくれただけでも良かったと思います。寺の者達であれば、そういったたぐいのものは見慣れているのですが、お墓参りとうで訪れる方々にとっては、初めて見るものですからね。何度か相談はされていたのですが、やはり、私どもでは正体が突き止められない以上、きょうとなえてやるのが精一杯でした」

「あれにあくはありませんが、長くとどまらせるのは危険かと思います。もし長引くようでしたら、こちらから腕の良い者を紹介いたしますが……」

「いいえ、ご心配にはおよびません。生きていたのであれば、だいなりしょうなり、未練は残るものです。私のだいで終わらないのであれば、次の者に受け継がせ、時間をかけてでもやらせてもらいましょう」

 深いシワがきざまれた顔で笑う住職は、「せっかくですから、お茶でもいかがですか? 今なら、坊主達のせっぽうもお付けしますよ」と言い、二人をほんどうへと招く。

 道すがら、寺のことや町のことを話していた住職は、ふと、何かを思い出したように立ち止まった。

「……ずいぶん昔のことになりますが、この山で人が死んでおりましてね。だいぶときっているというのに、その人の噂が途切れないのですよ」

「例の、酌婦のことですか?」

 青年が尋ねると、住職は深くうなずく。

「まだ私が若かった頃ですから、二十年か三十年か、それくらい前でしょうね。寺の敷地内で、見知らぬ男女がお亡くなりになっておりまして、亡くなられた女性を、私どもの寺でとむらったのですが、しゅが女性の関係者ではなかったので、印象が深かったのでしょう。盛大な葬列でしたし、礼儀正しい方達ばかりでしたから、今でもよく覚えております」

 ことのように話す住職に、青年が、「酌婦の葬式、ですか? そんな資金、よくありましたね」と言うと、住職は「それがですね」と、話を続ける。

「女性の客だったという男性が、全て負担したそうなのです。当時の私はしゅっをしたばかりで、葬儀の中心には関わっておりませんでしたが、手伝いとしてその場にはおりましたので、顔を拝見させていただきました。店の主人だという女性も、こつげに来られましたが、そうとう可愛がっていたのでしょう。涙を浮かべながらこつばこを抱えて行かれたので、こちらもよく覚えております」

 しみじみと、当時を思い出している住職の話に、青年は眉をひそめる。

「ただの客が、酌婦の葬式を……ですか? ずいぶんと、とくな人がいたものですね」

 信じられないと言いたげな顔だが、住職は微笑み、「それほど、情が深かったようですよ」と青年に言った。

「それがどうやら、喪主をされた男性の方が、亡くなられた女性をしたっていたようですので、せめてもの気持ちだったのではないでしょうか。女性がつとめていた店の者も、ほとんどの方がさんれつできたそうですから、本当に、強く想っておられたのでしょうね」

 住職は温かい目で、黙ったままの男を見た。

「彼女の葬儀で、その男性を見ましたが、とても優しい方でしたよ」

 男は何も答えない。

「悲しみながらも、最後まできちんとやり通し、骨まで拾っておられましたから、よく覚えております」

「……きっと、その男性は、若かったのでしょう。相手が誰であれ、いた女をにはできなかったのだと思いますよ」

 静かに微笑む男に、住職は笑顔を返し、「そうでしょうね」と優しい目をした。

「さて、そろそろ寺に着きますね。日暮れまで時間がありますし、私のむずかしい話をおちゃけにでもして、ゆっくりされていってください」

「では、お言葉に甘えさせていただきます」

 青年が答えると、住職は微笑みながら寺の門をくぐった。

 住職に続き、男が門をくぐろうとした時、風に乗って声が聞こえた。

 懐かしい声に立ち止まった男は、声のした方を向いて、その人物を探し始める。

 先に門をくぐってしまった青年が振り返っても、まだ声のぬしを探す男に、後輩の青年は呆れた顔で声をかけた。

「仕事熱心なのはいいですけれど、寺に来た時くらいは、ほんしょくの人に任せましょうよ」

「いや、これは」

「そうやって、またごとけになるんですから、自分のことくらいわかってください。外回りを命じてくれた隊長の心遣いに感謝して、お寺の中でのんびりしましょう。僕だって、ずっとれんきん続きで、これ以上は無理ですからね」

 疲れた声でそう言った青年は、「ほら、早く行きましょう」と男をかす。

 すでに住職は本堂の中に入っていて、坊主の一人がきゃくじんの自分達を案内しようと、本堂の前で待っているのが見える。

 声のした方を振り返ったが、後ろ髪を引かれる気持ちで顔をそむけると、「そうだな」と答えて門をくぐった。

「……たまには、寄り道もいいものだな」

「やっとわかってくれましたか。よかった~。ほら、早く行きましょう。ね?」

 嬉しそうな青年を追いながら、男は小さく呟く。

「……そのれんは、誰に対してなのだろうな」

 ふと立ち止まった男は空を見上げる。

 そして、悔しそうに眉をひそめ、泣き出しそうな顔で暮れゆく空を見つめた。

「だから、出世は望むなと……言ったではないか……」

 ――男が見上げた場所に、うっすらと光の線が現れる。

 しばらくの間、その場をただようように動いていた光は、よいやみと同時に消えていき、誰も見ることはなかったそうだ。

 それからも、その山では光る何かを目撃する声があいいだため、マント姿の誰かがたびたび向かったというのだが、それを知る人は、今はもういない。



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『にごりえ』 逢雲千生 @houn_itsuki

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