『にごりえ』

逢雲千生

第一章

第一話


 海が正面、山を背に、この町は存在している。

 昔の旅人は「山と海に囲まれた」なんて言っていたらしいけれど、町の人間ならそうは言わない。

 川を挟んで存在する町並みを見れば一目瞭然で、遠くの山が見下ろすように存在し、監視でもしているかのようにそこにあるからだ。

 外を見たけりゃ海を見ろ、なんて男達は言うけれど、ある程度顔を見せなくなると、海の波にさらわれて今頃は竜宮城にでも行っているのではないかと言われるようになる。

 そのうち風の噂で女房ができて、子供まで生まれているもんだから、女遊びはスッパリ辞めたってことなのだろう。

 今頃は我が子を抱いて女房に甘えて、美味い飯でも食っているのだろうね。

「ふん、くだらない」

 女達でごった返す六畳一間でそう言えば、隣の女が「昔の男のことかい」と聞いてきた。

 ふくよかな肉体が人気だという彼女は、見た目通り心も柔らかいらしく、あまり話さない人のことも心配してくれると店でも評判だ。

 普段ならその気遣いをありがたいと思うけれど、今回は口に出す言葉を間違えてしまったから、うっかり気まずい気分になってしまった。

 けして口に出してはいけないたぐいの言葉なのに、こうやってついつい口に出してしまうのだから、私もまだまだ若いと言えるのだろうか。

「なんでもないよ。後ろではしゃぐ声が聞こえたから、そう思っただけさ」

「ああ、なるほどね。あの子達、最近になって良い人ができたとか言ってたものね」

 彼女は振り返り、鏡台一つ分の場所でじゃれ合う二人に注意だけした。

 二人は不満そうに唇を尖らせるが、先輩に文句を言うほどの強気はないらしく、渋々といった風に櫛を手にして髪をとかし始める。

 あれで二人とも私より年上だというのだから、こういう店の女は不思議なものだ。

 ああいう子供っぽいのを好む男がいるからこそ、二人とも一時の恋が出来るのかもしれないが、やはり私には先が想像できてしまって「ご愁傷様」と口にしたくなる。

 さすがにそれはまずいと口をつぐむと、乾きかけた髪を後ろに流した。

 今日は髪結いが来てくれる日だから、女達は準備部屋とは名ばかりの雑魚寝部屋にそれぞれ集まるのが決まりだ。

 手間も時間もかかる結い髪は面倒だが、これをしなければ表に出してもらえない。

 化粧が先か髪が先かの違いだけで支度を一段落させて、今か今かと待っているところで思い出した男のことだけれど、彼はもう来ないだろう。

 若い男や独り身はよく来ても、金のない女房子持ちは来ないのが当たり前なのだ。

 特に新婚で子供が生まれたばかりの男など、ひどい態度をされることがあるくらいだから、むしろ会わなくて済むならそれでもいいくらいだ。

 馴染みが一人二人来なくなったくらいで大騒ぎする女がいるけれど、そんなのとっくの昔に経験していることだから、今さらあれこれと言うつもりはなかった。

 ただ、注意されても静かに盛り上がる背後の二人に、これから嫌というほど味わうだろう気持ちを思い出させられてしまったからかもしれない。

 こんな店のこんな場所で、こんな立場のまま頼り甲斐のない男を待つという地獄をね。

 衝立を挟んだだけの隣部屋の支度が終わり、見慣れた髪結いが道具箱を片手に入ってくると、一番端の人から始まっていく。

 慣れた調子で出来上がっていく髪型は綺麗だけれど、四十に手が届く二つ隣の彼女は疲れた顔でうつむいたままだ。

 遊郭みたいなところであれば、男相手の他にも仕事はあるかもしれない。

 若くないと馬鹿にされることも、刻まれていくしわに怯えて鏡を見られなくなることもないかもしれない。

 けれどここではそんなことは言ってられないのだ。

 手慰みに持った団扇で自分を扇ぎながら彼女を見ていれば、髪が整っていくうちに前を向き、いつもの顔に戻っていく。

 最後に髪結いへお礼を言う時には、老けこみそうなほど俯いていた彼女は消えていた。

 隣が終わり、ようやく自分の番が来ると、髪結いは私の顔を見て微笑み、注文通りの髪型を作っていく。

 私は真っ直ぐに鏡を見つめ、下ろした髪が綺麗にまとめられていくのを見ながら、目の前の女に微笑みかける。

 女もまた深く微笑み返し、私を見つめる。

 お互いに見つめ合い、髪型ができる頃にはいつもの自分が見えたので、視線を外して髪結いにお礼を言うと、さっさと化粧を始めた。

 真っ白に塗る顔と同じくらい白い胸元はそのままに、着物の襟を軽く開いて立ち上がると、鏡を見ながら全体を緩めていく。

 そうやっていつものように胸元を見せるようにだらしなく直すと、これで終わりだと部屋を出た。

 聞こえてくる店先の騒がしい声で、店が開く時間なのだと分かり足を速めるけれど、部屋の中じゃ外の景色を好きに見られないから、時間なんてわからない。

 それで店に出るのが遅れて怒られることもあるため、この店の間取りは本当に不便だ。

 少し早足で店に出れば、仕込みを終えた人達がつまらなそうに煙草をふかしていて、煙が店の中に漂っている。

 店の料理を作って日銭を稼いでいる人達だ。

 このまま夜の客になる人がいるけれど、今日は稼ぎに来ただけの人がほとんどなので、帰る前に一服しているといったところなのだろう。

 そうやって横を通り過ぎようとすれば、目があった男性に声をかけられた。

「なんだなんだ、おりきともあろうもんがだらしのない。もうとっくに店が開いてるぞ」

 いつも来ているおじさんが笑う。

 私は「髪結いが来たからね」とだけ言って下駄を履き、薄暗くなってきた外へ出た。

 外は夜に向けた準備が始まっていて、あちこちの店で大忙しだ。

 うちの店は人を雇える余裕があるし、客の目当ては酒や料理ではないから楽な方だろう。

 そうでない店なら酒や料理でもてなしつつ、主人自ら店の女達と客の相手をしなければならないから、女達より主人の方が苦労することがある。

 さすがにそこまでの店はここら辺にはないけれど、どこがいつそうなってもおかしくないくらい厳しいのがこの世界でもあるのだ。

 空いている長椅子に座り、蒸し暑くなって手で自分を扇いでいると、店の傍にいたおたかちゃんが団扇を手渡してくれた。

「これ使ってよ」

「おや、ありがと。いいの?」

「今日は客引きしないといけないし、のんびりしてられないからね」

 笑うお高ちゃんに笑い返すと、道の向こうから見知った顔が近づいてくるのが見える。

 あれは、と私が声に出す前に、振り返ったお高ちゃんが二人に近づき、片方の腕に抱きついた。 



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