5-6「革命前夜」

「結局、クリスマスっぽいものじゃなくなっちゃったね」


 買い物から帰ってきてテーブルに並んだのは、煮物や唐揚げなど、明らかにこの日に適当な料理ではなかった。とはいえ、クリスマスパーティーを経験していない僕たちがそういう食材をうまく買い揃えられるかはわからない。遅い時間だったこともあり、クリスマス向けの惣菜はとうに売り切れてしまったようだった。


「まあ、でも、クリスマスに何食べるかなんてわかんないし」

「うん、たしかにそうだね。私たち、似たもの同士だ」


 ケーキが売れ残っていたのは運がよかった。彼女のノートには『クリスマスケーキを食べてみたい』という項目があったはずだ。売り場にあったのは、二割引きのシールが貼られた、ふたつ入りで三〇〇円のケーキだった。それでも紬は目を輝かせていたから、誰かが勝手に決めた形式的なものに心を躍らせる瞬間があってもいいのではないかと思えてくる。


「詩摘くん、提案なんだけどさ」

「うん」

「さいごの旅、明後日からにするのはどうかな。まだ旅館も新幹線も予約してないし、私、何も持ってないから。明日は準備の日にしようよ」


 さいご。言葉、一度言語中枢を通過してから、ゆっくりと「最期」に変換された。避けようのなかった現実が、ふわりと心の底に着地する。


「……うん。そんなに急ぐ必要もないしね」

「私、旅行のしおりを作りたい。ノートにも『旅行のしおりを作る』って書いておいたんだ」

「楽しそう。行きたい観光地とか決めて」

「ねえ、駅の周辺地図も載せようよ」


 自殺することを楽しそうに話す人が彼女の他にどれだけいるのだろう。悲しみの裏側から高揚が押し寄せてきて、紬の死が綺麗なことのように思えてくる。人の憂鬱な感情、それ自体が美しさという属性を帯びていた。


「これ、持ってきたんだ」


 紬がそう言ってトートバッグから取りだしたのは、「物理」と書かれた生成り色のノートだった。紬との関係が深まるほど、救いというものが一体何なのかわからなくなる。


「あとはパソコンとロープ」


 トートバッグのなかから出てきたのはその三点のみだった。コートや靴も身につけないでやってきたのだから、入念に準備をしている時間がなかったのかもしれない。


「明日は必要なものを買って、髪を切って、それから……」


 うん、うん。彼女の話を聞きながら自然に口角が上がっていた。僕は紬の楽しそうな話を聞くことが好きだったのかもしれない。死ぬまでにしたいことを語っているとき、彼女は誰よりも生き生きとした表情をしていた。


 旅行の予定をある程度決めたころ、僕は冷蔵庫のケーキを皿に出し、倒さないよう気をつけながら紬の前に置いた。「わあ」、控えめな歓声を聞きながら、続けて自分のぶんのケーキを配膳する。隣に腰掛けたとき、「いただきます」、紬がちいさな声で言った。


 弾けるような表情の裏側にどうしようもない悲しみが紛れている気がして、僕は、彼女から目を離すことができなくなってしまった。


 フォークを差し込み、丁寧に口へ運ぶ。赤く滲んだ口の端に生クリームがついて、悲しみを隠しているみたいだと思った。紬はケーキに視線を落としたままゆっくり飲み込んだあと、また大事そうにフォークを差し込んだ。


 あまり眺めていては怒られてしまうかもしれない。彼女から目を離し、自分もケーキを口に運ぶ。決して高価なケーキではないが、普段甘いものを食べないせいか、柔らかい甘味に脳を揺さぶられたようになった。


「紬……?」


 なんとなく隣へ戻した視線の先、紬が大粒の涙を流しながら、黙々とケーキを口に運んでいた。結滴した悲しみが頬の青を経由し、ぽたりとテーブルに落下する。紬は口のなかのものを飲み込むと、「私」、震えた声で言った。


「クリスマスケーキ、初めて食べた」


 じっと堪えるような声を聞いて、目頭の奥から熱の塊が溢れだしそうになっている。正面を向いたままの紬をしばらく眺めたあと、「そっか」、ほぼ無意識に近い言葉が口を衝いた。


「じゃあ、死ぬまでに、全部やろう。いままでできなかったこと」


 僕は、彼女がいままで生きていてくれたことを肯定してあげたかった。僕はやっぱり紬のことが好きだった。


 ケーキの皿が空になったころ、彼女の涙を乾かすため、すこし風に当たろうと提案した。ベランダへ続く扉を開放すると、冬の、乾燥した大気の匂いがした。外に見える星空は、実際目にしたわけではないけど、どこまでも続いているという確信があった。


 例えばこの世にない場所だったとしても、僕は紬についていくつもりだった。彼女のためなら死んでもいい。作り物の言葉と笑われるかもしれないが、僕はたしかに紬と一緒に死んであげたいと思っていた。


「あのさ」

「ん」

「僕は本当に弱い人間で、紬がいなければそのことにすら気づけなかった。紬がいなかったらいまでも、腐ったまま生きていたと思う」

「うん」


 彼女と寄せ合っている肩から体温が伝わってきて、入りきらなかったぶんが冷たい空気に溶けだしている。初めての経験だから、どういう言葉を選ぶのが正解なのか、まったくわからなかった。それでも熱が飽和した今だったら、どんな気持ちも迷うことなく伝えられる気がした。


「僕は紬が好き。短い間だけど、これからずっと、一緒にいてほしい。恋人として」


 心臓が、本来あるべき場所より数センチ上を浮遊している。ふたりぶんの体温と鼓動が溶け合って、触れている部分の境界線が曖昧になっていた。


 紬からの回答はなかなか返ってこなかった。気になって、隣へ視線を送る。俯いた様子の彼女から、ちいさく鼻をすする音が聞こえた。


「……ごめん。泣かせるつもりは」


 思わず漏れた謝罪が風の音に紛れて、冷たい空気にすうっと溶け込んでいく。紬は首を横に振ると、「ちがう」、籠もるような声で言った。


「……ちがう、私、嬉しくて、幸せすぎて、いいのかな、こんな」


 ちいさく震動した言葉が空気を経由し、しっとりと身体に染みこんできている。紬の涙につられて喉が引きつったようになるから、彼女が自分と重なってしまったみたいな錯覚に陥った。「幸せになるのが怖い」、唐突に彼女がそう言っていたことを思いだした。


 僕は充分幸せだった。すこし冷たい空気のなかで、紬と隣り合って体温を感じられる今この瞬間のために生きていられればそれでよかった。もう怖いものなんてない。どう考えても僕は幸せだった。


「最期くらい幸せになろう」


 紬がいるからこそ僕は自分の生に意味を持たせることができた。命の価値というのは自分に委ねられるものではなく、他人に付随して生まれるものなのかもしれない。どうせ死ぬなら何も関係なかった。「うん、うん」、紬は嗚咽の混じった声で何度も頷いた。


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