第8章『涙がこぼれそう。』

8-1「人を殺す用のロープ」

 廃墟の外は暖かく、陽射しを受けた空気そのものが熱を発しているようだった。冷たい空間から出たときに絡みついてくる、もわっとした空気が好きった。落下してきた枯葉が太陽に重なって、一瞬、視界がしぼんだようになる。唐突に、今年があと一日で終わるということを思いだした。


 好きな人と一緒に死ぬ。それは紬が「自殺する」と決めたとき最初に思い描いた結末で、諦めてしまった結末でもあった。その内容からひとつ、想像できることがある。紬は最初からこうするつもりで僕に近づいたのではないか。「結局、私の願ったとおりになっちゃった」紬の言葉が脳裏に浮かぶ。


 僕の生きる意味は紬にあるし、紬の生きる意味はきっと僕にあった。いや、生きた意味というのが正しい。僕の生きた証が紬そのものだった。反対に、僕が死んだら紬は生きた意味を失ってしまう。


 もしかしたら紬にとって、一緒に死ぬことは救いではなくなってしまったのかもしれない。昨夜紬が「死ななくていい」と言った理由は、きっとそこにあった。


 紬が僕を大切に思うあまり、ひとりで死ぬことを選んだ可能性は大いにある。でも、それではしっくりこなかった。


 紬は、自分の生きた証がなくなってしまうことを恐れていた。でも、それは僕も同じことだった。ひとりで生き延びたとしても紬がいなければただ苦痛なだけだった。


 僕が生き残らなければならないのなら紬の自殺を止める必要があるし、彼女が首を吊るのであれば僕も同じように首を吊らなければならなかった。


 生きるということは総じて苦しかった。その原因は人生に生きる意味を見いだし続けなければならないところにあるのではないだろうか。僕は自分を苦しめるために生きていた。死ぬことも苦しむことも、僕にとっては免罪符でしかなかった。


 木陰、葉に遮られてできた斑模様の地面を、見たことのない虫が歩いている。聞いたことのない鳥の鳴き声がする。風で葉が擦れる大合唱の隙間から、微かに水の流れるような音がした。


 気づけば、叫ぶみたいにまた名前を呼んでいた。木の根っこが足に引っかかり、一瞬、視界に映るすべてが崩れ落ちたようになる。そのときたしかに、自分の魂みたいなものが身体から消失してしまっていた。紬を失うことの痛みが激しく心臓を揺らし、油断したら胃のなかのものを吐きだしてしまいそうだった。


「紬……」


 不自然に揺れた木の陰に、木製の椅子が置かれていた。僕から見える二本の脚が不安定そうに揺れている。背もたれの縁で、朝日がくつろいでいた。


「……あーあ。間に合わなかった。詩摘くんが起きる前に終わらせようと思ったのに」


 軽いようで、重たい。紬の、声だけが聞こえてきた。吐きだした空気が、生きるために二酸化炭素を排出するのとはまったく別の役割をしていた。


 紬の言葉は、私のあとを追って自殺する勇気なんてないでしょという本来以上の意味を含んでいるような気がした。それを口に出されたところで僕が気分を害することはなかったし、実際、それは正しかった。


「なに、してるの」

「縄、結んでる」

「……ねえ、やっぱり紬に自殺するしか選択肢がないなら、僕も一緒に首を吊ろうと思う」


 かん、かん。金属のぶつかり合う音がする。木の裏側から細い腕が現われて、そこに握られていたハンマーが枯葉ばかりの地面に転がった。自殺志願者という限りなくマイノリティな枠組みのなかで紬が定石に乗っ取った結末を迎えるしかないのであれば、僕にだって付いていく以外の選択肢は用意されていなかった。


「どうしてそこまでしてくれるの?」

「紬が、好きだから」


 できた。紬の、おひさまのような声がした。続けて顔を覗かせた彼女が、眉尻を下げて微笑んでいる。まぶたの縁に飾られたひどく長い睫毛の、先端に光が乗って幻想的に輝いているその光景から僕は目を離すことができなくなっていた。


 足を一歩だけ踏みだしたとき、人を殺すためのロープが振り子のように揺れているのが見えた。地面に映しだされた斑模様の影が、風や雲の流れによってわずかに形を変えている。椅子の上に立っている彼女の、ワイドパンツの裾から覗く脚にはまだ黄色い痣が残ったままだった。


「……詩摘くん、私は本当に詩摘くんのことが好き。本当に、本当に好きで堪らなかった」


 雲、巨大な白の塊が太陽を覆い隠して、景色が一斉に重たい色に変化する。その雲が太陽の下を通過すると、そこから先、空は綺麗に晴れ渡っているようだった。次に景色が灰掛かるためには、登校してから帰宅するまでなんかよりもっと気の遠くなるような時間が必要だった。


「自殺したいことを忘れるくらい、一緒にいて楽しかった。……ずっとこの時間が続けばいいのにって、何度も、何度も思った。私、ずっと詩摘くんに救われてた。言葉にできないくらい幸せで、本当に、大好きだった」


 初めて生成り色のノートを見つけた時のことを思いだしていた。物理、二年二組、瀬川紬。自殺するまでにしたい100のこと。達成できなかった項目のぶん、首を吊ることの寂しさがほんの少しかさ増しされていた。「でも」、紬の声が涙で震えていた。風はすっかり春の色をしていた。


「……でもね、私は詩摘くんが思ってるような人じゃないよ。最低なこと、しちゃった。自分のために、君のノートを隠して、私のノートを見るように仕向けた」


 春の風は肌の温もりと同じ性質を持っているのだと思う。悲しみは端っこからほつれるみたいに形を失っていって、すこしずつ、愛おしさが内側から広がっていく。


「……詩摘くん。あのね。君が私のことを好きなのは、きっと、気のせいだったんだよ」


 木製の椅子の上で、笑顔が煌めいていた。紬のいまにも溶けてしまいそうな瞳が、日光に当てられて甘ったるそうに輝いている。睫毛に絡んだ光沢は、些細なきっかけで結滴してしまいそうだった。


「……気のせいなんかじゃなくて、僕は、ちゃんと紬のことが好きだよ」


 僕はきちんと、模範的なくらい紬が好きだった。自殺志願者としての重さも過去も全部を含めて紬という人間だった。好きという言葉の回答だった。


 彼女の丸い目から光が零れて、その周りにあるすべてが艶やかな光を獲得したとき、「悔しいなあ」、噛みしめるみたいに紬が言った。いつか見た夜景とか星空とかよりもっとおぼつかない、刹那的な人間の美しさみたいなものがそこにぎゅっと詰め込まれていた。紬は両手で順に涙を拭うと、もう一度、「悔しい」と言った。


 家を出る前、書こうとしていた遺書を、白紙のままゴミ箱に捨ててしまった。自分で意味を作ることから目を逸らしている。紬も一緒だった。意味のない逃げ道が頭のなかでぐるぐると回っている。

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