7-3「本当のことを言うとね」
廃墟のなかは冷え切っているのに、隣から伝わってくる体温はやけに生々しかった。私がこれまで受けてきた苦痛は、もう終わる。それから、詩摘くんとの幸せな日々も。
「……結局、思ってた結末と違ったな」
詩摘くんは静かに寝息を立てるだけで、返事はしない。約半年、私のわがままに付き合わせてしまった。もう解放されるんだよ、よかったね。そう口に出した途端にものすごく悲しくなって、涙が零れないよう、上を向いた。天井は朝日に明るく照らされていた。
詩摘くんはきっと、私と一緒に死ぬつもりでここまで来た。ひとりで死ぬことは、彼を裏切るのと一緒だ。でも、どうするのが正解だったのだろう。私は彼に頼らず、最初からひとりで死ぬべきだったのだろうか。
「……好き」
二枚重なったコートのなかで、熱が流動している。気温が低いことは気にならない。詩摘くんの手は男らしくて、触れているだけで安心させられる。
私の願いは叶わない。
自殺するまでにしたい100のこと。最後の項目、『好きな人と一緒に死ぬ』。好きな人にたくさん愛を伝えて、愛を伝えてもらって、幸せな気持ちで死にたい。いままで決して感じることのできなかった、優しさで包まれていたい。
誰でもよかったわけじゃない。人生に絶望していて、自殺願望を持っていて、それから私の自殺を認めてくれる人でなければならなかった。詩摘くんは自殺志願者ではなかった。私と過ごして、時間を共有するなかで、私のために命を使うことに決めてしまった。
自分の理想とはすこし違う人を好きになったことに、私は安心していた。私は「自殺を決めた人間」ではなくて、ちゃんと、詩摘くんが好きだった。興味がないみたいな顔をするくせに本当は心配してくれているところとか、そういう細かいところが積み重なって、気づけば詩摘くんにしか目がいかなくなっていた。
「……大好きっ」
吐息、くらいの声で囁いてみる。詩摘くんはやっぱり起きない。死んでしまったのではないかと不安になって、心臓に手を当ててみる。ゆっくり、注意しなければ気づかないくらい、儚い鼓動が肋骨を押し上げていた。
「……詩摘くんと、ずっと一緒にいたい」
自分でも、声が震えているのがわかった。泣きたくないのに結局涙は溢れてくる。こういう時ばっかり。悪態を吐いても涙は収まらない。死にたくない。詩摘くんと離れたくない。ずっとこの手を握っていたい。
どうしようもなかった。普通に生きることもままならない。このまま帰れば自分がどうなるか、痛いほど知っている。大好きな人と時間を共有してから帰るあの部屋は、いつもよりずっと冷たい。あの絶望をもう二度と味わいたくない。
旅行から帰ったときは、本当に死んでしまうかと思った。勝手に何日も家を空けた私を、お母さんは容赦なく殴った。こんなところで死ぬならもっと早く首を吊っておけば良かったと、何度も考えた。でも、いまなら言える。生きててよかった。
私はいま、胸が張り裂けそうなくらい幸せだった。
「ごめんね」
彼の頬に手を添える。コートのなかが温かかったおかげで、私の手は、彼の肌にしっかり馴染んだ。幸せになってほしいけど、忘れられることが怖い。詩摘くんなりの人生を歩んでほしいけど、でも時間が経つごとに私と過ごした日々が色褪せてしまうのも悲しい。私の生きた証は彼にある。
だから、私が生きていたことを、寂しいときに思いだしてほしい。あわよくば、私を偲んで泣いてほしい。
彼の唇は柔らかくて、冷たい外気に晒されているせいか、すこし冷たかった。脳がとろけて、真っ白になっていって、今なら死ねる、と思った。
自殺するのに必要なのは一瞬狂うことと言われるけど、実際に求められるのは、これ以上ない幸せをその瞬間に強く感じることなのではないだろうか。私は充分幸せだ。幸せだった。
一緒に見た花火は、今まで見たなかで一番綺麗だった。初めて泊まった詩摘くんの家は、いい匂いがした。詩摘くんと手を繋いだとき、人生で一番緊張した。初めて食べたクリスマスケーキは、どんな高級料理よりも美味しかった。彼がくれた告白の言葉は、小説で読んだどんな言葉よりも心を震わせた。
彼がくれた結婚指輪が、朝日を反射して燦々と輝いている。長い口づけを終えて、私はコートを抜けだす。ロープを持って、部屋の扉を引く。
もう迷いはなくなっていた。
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