7ー2「人生の転機」

 初めて死にたいと思ったのは、十四歳のときだった。


 遊びの誘いを断り続けていた私を見かねたのか、当時仲のよかった友達が、放課後に私の家のインターホンを鳴らした。いつもは学校で誘われるから何らかの理由を付けて断っていたのに、この日は直接家に来られてしまったからどうしようもなかった。


 この日もお父さんとお母さんは盛大に喧嘩していて、お母さんが投げたテレビのリモコンは、綺麗な弧を描いて私の太股に大きな痣を作った。


 ふたりの喧嘩はいつも、退勤後にどこかで遊んでいるお父さんに関する話題から始まって、「こんなことになるなら結婚しなければよかった」を経由し、そして「紬はどこにもいかないでね」で一度終了する。


 お母さんは寂しいのだと思う。だから、私が離れないように管理したがる。愛情のかたちが間違っていることを、私は、中学生になってから初めて知った。


 遊びに行くこともトイレに入ることも眠ることも、全部お母さんの許可が必要だった。だから私は、この日、お母さんに遊びに行っていいかを訊いた。


「どうせ紬が呼んだんでしょ? 馬鹿なくせに、そういうところばかり頭が働くんだから。いいよ、行ってきな」


 それから片手で追い払うみたいな動作のあと、「帰ってきたら話あるから」とお母さんは付け加えた。お父さんは何も言わずにテレビを眺めるだけだった。


 放課後の世界は暖かくて、カレーのような匂いがする。不用品回収の車が自転車に併走しているのがおもしろかった。誰が誰を好きとかゲームがどうとかの話をして、駄菓子屋でキャンディを買う。私は自由だった。


 午後六時の夕焼けチャイムが鳴ってみんなが帰っても、私はお母さんの言葉を思いだしてなかなか家に帰ることができなかった。後先考えずに行動した、あのときの自分を殺してしまいたかった。街の、なるべく人が少ない道を歩いている間に、不在着信の数字が増えていく。


 私はこのとき、家に帰らない限り自由であることに気づいてしまった。外には私の知らないことがたくさんあって、何でもできる気にさせてくれる。このまま帰らなければ私はなんでもできて、でも帰らなければ生きていけない。


 死ぬことと耐え続けて生きること、どちらが楽なのだろう。それを考えている間だけ、お母さんは恐くなかった。


 最後は好きなことを全部して、それから死のう。なんだ、簡単じゃんと思った。お母さんへの恐怖も殴られたときの痛みも、ごはんが出てこなくて囓った段ボールの苦味も、死んでしまえばすべてなくなる。


 結局、二十一時を回ったころ、私は学校の先生に発見された。お母さんは世間体を保つために、「叱ったら喧嘩になって家出した」ということにしたようだった。その日の夜は上手く歩けないくらい身体が痛くなって、それから私の布団は冷たいフローリングになった。


 高校一年生になってから、お母さんに内緒でアルバイトを始めた。私がやりたいことを全部やるためには、部活に入っている暇はなかった。同時に、自殺の計画を練り始めた。


 自分がやりたいことはなんだろう。まずは、『やりたいことを100個書き出す』。それから『コンビニで好きな物を全部買う』、『水族館に行く』、『スイーツの食べ放題に行く』、『浴衣を着て花火大会に行く』。


 お母さんに殴られている間も、友達とお揃いのキーホルダーを捨てられたときも、いつか死ぬことを考えていれば不思議と何も感じなかった。死は麻薬のような役割を持っていると思う。不安なときもどうしようもない絶望も、死ぬことが決まっていれば何も怖くなかった。


 でも、せめて、最後くらいは誰かに愛されてみたかった。誰かを、好きになってみたかった。だから、振り返ってみれば、あの日詩摘くんが物理の授業を抜けだしたとき、その瞬間こそが私の人生の転機だった。


「ノートの中身、見た?」

「全然、見て、ない」

「見た人の反応、だなあ」

「もう忘れたから」


 彼は、一般的な理由で私の自殺を止めようとしなかった。詩摘くんと水族館に行って、浴衣で花火を見て、旅行もした。肩書きからくる役割ではなくて、詩摘くんは本心で私の自殺を止めようとした。


 私はいつ詩摘くんを好きになったのだろう。気づけば詩摘くんがいない時間にもの寂しさを抱くようになっていた。いつからか、死ぬことが怖くなっていた。そして、詩摘くんが死んでしまうことが、それ以上に恐ろしかった。


 大阪で警察に捕まりそうになった日、私は小説の結末を変えた。そこで捕まった詩摘くんが、日常を謳歌する未来を想像してしまった。だから私はヒロインに、ひとりで自殺させることにした。


 自殺するまでにしたい100のことの、本来迎えるはずだった最後の項目はその日に諦めた。


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