第7章『死にたい女の子の独白。』
7ー1「精神病の私と自称健常者」
* * * * *
「よかったら、話してくれないか。瀬川のこと」
夏は暑い。世間がそれを当たり前のことのように捉えているから、私はきっと他人とわかり合うことはできないのだと思う。夏にだって、暑くない日はあるのに。
家族は当然仲がいいもので、大切にしなければならなくて、例えば病気に罹ったら心配しなければならない。みんながおかしいのか私が狂っているのか、一般的な意見に当てはめれば明確だった。
「何もないですよー。私よく転ぶから、前の先生が勘違いしちゃったんだと思いますよ」
芳村先生は優しいと思う。前の担任から私に虐待の疑いがあることを引き継いで、自分なりに解決しようとしている。でも、大人の力を頼ったところでどうにかなる問題ではないことを私はよく知っていた。それどころか、積み上げてきた秩序をぐちゃぐちゃにして、問題を大きくしてしまう。
前に児童相談所の人がやってきたときは大変だった。「お前が通報したんだろ」と言われて、久しぶりに顔を叩かれた。痣にならないけど脳に響く、ギリギリの強さだった。平手打ちは、人が想像するよりも痕になりづらい。普段はどれだけ怒っていても、周りに気づかれないようにするためか、顔や手足の見える位置を殴ることはなかった。児童相談所の訪問は、それだけ彼女に不満を与えたらしい。
お母さんはきっと、私が裏切ったと勘違いしたのだと思う。
「俺さ、自殺で兄を亡くしてんだよ。夫婦で心中したんだ」
あっけからんとした顔で芳村先生が言った。そのとき私は、不自然な勢いで顔を上げてしまったのだろう。先生はすこし困ったように微笑んだ。
「……なんか、いいんですか? こんな話聞いちゃって」
へへ、と笑って場を誤魔化す。人間は死にたいと思うのが普通で、健常者のほうこそが精神病なのだと思う。生きたいと思うためには、自分の外側にある、自分の命よりも大切な何かに執着しなければならない。私からすれば、そういう執着とか傲慢のほうがよっぽど異常だった。
だから、私を精神病呼ばわりする自称健常者たちとは決してわかりあえない。
「いいんだよ。ずいぶん前のことだし」
唯一わかりあえるとすれば、身近な人の自殺を経験した人間なのではないかと思う。身内が自殺すれば、人はその原因を考えるだろう。その瞬間だけ、自殺志願者と自称健常者は、たしかに寄り添っている。
だから、もしかしたら、この先生なら私の死にたい気持ちを理解してくれるかもしれない。
「先生、もし私が自殺したら――」
「馬鹿なことを考えるな。死んだらそこで人生は終わりなんだよ。生きていればいいことが絶対にある」
「『もしも』の話です。本気にしないでくださいよー」
だったら私があと何年お母さんからの暴力を耐えればそれを越えるいいことがあるのか教えてください。言葉は空回りして、身体の外に排出されることはなかった。足の付け根部分で、スカートのひだが不自然に重なっている感覚がある。太股の内側で、皮膚がくっついている。
私は演技が上手いと思う。この場で私は、虐待の可能性があるだけの、明るい女の子だった。
先生の話は「人生のいいことと悪いことは収束するようにできている」で再開し、「高校を出たら一人暮らしをする選択がある」で一段落を迎えた。
私が求めているのは未来の話ではない。今の苦しみから抜けだす手段だ。このことを誰もわかってくれない。自殺がダメというなら、それより効果的な対処法も併せて教えてほしい。「普通の学校生活」を守りたくてその不満を吐きだせずにいるから、ある部分で私とお母さんは似ているのかもしれなかった。
「これは内緒なんだけど、俺の甥っ子がこの学校に通ってんだよ。兄夫婦の息子な」
「誰なんですか?」
「内緒って言っただろ。学校では公平に扱わないといけないんだよ。生徒の家庭事情を漏らしたら俺が怒られる」
彼は「内緒」と言ったが、先生と同じ姓を持つ生徒はこの学年に一人しかいない。期待と諦念、両方が風船みたいに胸のなかで膨張していく。そして私は、期待のほうだけを丁寧に切り落とした。上手く生きるために必要なのは、物事に一切期待しないことなのではないかと思う。
「まあ、何かあったら相談してくれ。別に俺じゃなくてもいいからさ」
芳村先生との話はそれで終わった。別に、解決しなくてもいい。救いがなくてもいい。自殺に成功して、この苦しみから逃れられればそれでよかった。
自殺するまでにしたい100のこと。四月一日から始まったその計画は無事に進んでいる。この日の放課後は、友達と都内で遊ぶ予定だ。
『お子様ランチを食べる』、中央線沿いに、大人向けのお子様ランチを専門としている店があるらしい。こうして高校生になってから子供のころにできなかった夢を叶えるのは、楽しくて、すこし寂しかった。
項目をひとつ終わらせて日記を付けると、自分が死に近づいていることを強く実感する。一瞬だけ死に近づいたときに絡みついてくる、ぞわっとした温かみが好きだった。
教室へ続く階段を降ったとき、「詩摘」、芳村先生の声がした。次に、「何」という、人との繋がりを突き放すような、感情のこもっていない返事が続く。芳村詩摘。席が近いから、彼のことはよく知っている。彼と目が合いそうになり、咄嗟に身を隠した。
「進路調査票、出してないだろ?」
「……あのさ、学校で『詩摘』って呼ばないでくれない?」
やっぱりこの人が、と思った。両親を自殺で亡くし、ひとりで生きてきた男の子。彼はたぶん、他人を信用していない。いつも教室の隅っこで本を読んでいて、昼休みを迎えた途端、ふらっと教室を出ていってしまう。芳村先生とは別の人生を歩んできた人間だ。この人なら、私の苦しみをわかってくれるかもしれない。
その翌朝、私は彼のノートを隠した。そして物理の授業の時間、チャイムが鳴る前に教室へ戻り、彼の机に隠していたノート、それから自分の机に『物理』のノートを置いた。ふたりきりで話をしてみたかった。
『自殺するまでにしたい100のこと』の、最後の項目だけ変えておいた。そこを彼に見られたら、私の狙いに気づかれてしまう。彼自身が決めてくれなければ意味がない。
しばらく考えて、授業開始まで残り一分の時計が目に入り、『首を吊って死ぬ』という思いついた言葉を綴った。書いてから少し違和感があるような気がしたけど、時間がなかったので教室をあとにした。
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