6-12「廃墟に溶けた言葉」

 景色が移ろっていくのを眺めながら、停留所の名前が読み上げられるのをじっと待っている。バスのなかで紬はぐったりとしていて、移動中、彼女は僕の肩に頭を預けたまま左手の指輪をじっと眺めているだけだった。


 空はすっかり暗くなっていた。たまに現われる街灯と店の看板だけが外に見える光のすべてだった。バスを降りてホテルへ向かう途中も、紬の目の焦点は合わないままだった。


 明日はチェックアウトのあと、近くの廃墟で一緒に首を吊る。彼女のロープは充分な長さがあるため、僕が特別に道具を準備する必要はなかった。


「大丈夫?」

「うん。でも、すこし疲れちゃった」

「ホテルに着いたら、ゆっくり休もう」


 紬のスーツケースを受け取り、エントランスに足を踏み入れる。ちょうど、チェックインのラッシュに噛み合ったようだった。フロントの列に並び、ぼうっと順番を待つ。「荷物、お預かりします」、背後からかけられた声を「お願いします」と受け流しながら、引いていたふたつのスーツケースをホテルのスタッフに手渡した。


 荷物から解放された拍子に、突然、身体が重さを思いだしたようになった。これまで旅をしてきたなかで、時間をかけて休んだことはほとんどなかった。落ち着くため、思いっきり息を吸い込んでみる。肺が空気でいっぱいになったころ、紬にちいさく上着の裾を引かれた。


「……詩摘くん、あの人」

「え?」


 紬が僕から視線を移動させた先、こちらをじっと見ている男がいた。数秒の不自然な見つめ合いのあと、ぴったり交わっていた視線を慌てて逸らす。記憶は曖昧だが、大阪で声を掛けてきた警察官に風貌が似ているような気がした。彼が無関係の人間かどうか、確信が持てない。男が一歩を踏みだした拍子に、横隔膜の底が大きく跳ねるのを感じた。


「出ようっ」


 入口のほうへ方向転換したとき、それと同時に男が走りだしたような気がした。急いで紬の手を引き、自動ドアの外に飛びだす。とにかく、ホテルから離れなければならなかった。紬を気遣うことはできても、警察が追ってきているかを確認する余裕はない。


 肺と気管がめまぐるしい周期で加熱と冷却を繰り返し、温度差で割れたガラスのようになっている。心臓が悲鳴を上げても、乾燥で喉が焼き切れそうになっても、僕は足を止めなかった。


 夜は冷え込んでいた。身体が動いているということを、目視することでしか認識できなくなっている。ガードレールの隙間を抜けて森へ侵入し、光のひとつも見えない奥のほうへと足を進めていく。


 もしかして、ここで捕まって日常に戻ったほうがいいのではないか。甘えた自分が頭の隅でそんなことを言い始めた。だって、死ななくても、苦しい毎日の隙間に掴める幸せがあるかもしれなかった。狭い一室で、紬と笑い合う光景が浮かぶ。


「……詩摘くんっ、もう、追ってきて、ないっ」


 紬の言葉を聞いて、ハッとした。振り返って確認してみても、人の姿どころか、自分がいまどこにいるのかもわからなかった。とにかく、身体が重くて仕方がない。投げだすみたいに、思いっきり地面に倒れ込んでみる。服が汚れるのも気にならなかった。


 葉の隙間から、綺麗な星空が覗いていた。雲はひとつもなかった。雨に濡れた服が重くなるみたいに、疲れの沁みた心が少しずつ重量を増していく。乱れた呼吸も激しい鼓動も、なかなか収まらない。あれ、こんなところで何をしているんだろうと思った。本来だったら、自室の布団に潜り、ゲームをしている時間だった。


 どん。何か重い物の落っこちる音がした。風、冷たい空気に当てられた身体が端っこから現実味を取り戻していく。隣に、紬が倒れていた。


「紬っ」


 立ち上がり、急いで紬を抱き起こす。無理な運動をさせすぎてしまったのかもしれない。彼女は薄く目を開くと、「痛っ……」、消え入りそうな声で言った。


「ごめん。ここで少し休もう」

「……ん。大丈夫。たぶんここ、首吊る予定の、廃墟の辺りだよ。もう少し歩こう」

「大丈夫、なの?」


 そう訊いてから、言葉選びの誤りを自覚した。紬はこういうとき、必ず肯定的な言葉を返してくる。案の定、紬から出てきたのは「大丈夫だよ」というあまりにも信用ならない言葉だった。それに、夜の森で廃墟を探すなんて現実的ではない。それを口に出そうとしたところ、「森に入ってきたとき、それっぽいの見た」と紬が言った。彼女に付いてしばらく歩いた先、そこにはたしかに廃墟らしき家屋が立っていた。


 屋根や壁が崩壊している様子はなかった。「おじゃまします」、ちいさく呟いた紬に続き、ゆっくりと玄関に足を踏み入れる。フローリングの床に土足で上がるのは気が引けたが、いくら最南の県とは言え、そうでもしなければとても寒さを凌ぐことなどできそうになかった。


 スーツケースはホテルに預けたままだった。羽織れる衣類にも限りがある。僕たちは一番奥の部屋で、壁に背をつき、寄り添うようにしてコートを被った。ふたりぶんの熱で、なんとか夜は越えられそうだった。


「最後の夜くらい、ゆっくりしたかったな」

「……うん、そうだね」


『高いワインを飲む』『最後の晩餐に好きなものをたくさん食べる』、これだけ必死に前を向いて生きてきたのに、結局、リストをすべてこなしきることができなかった。自殺するまでにしたい100のこと。前を向いたフリをするための、指標でしかなかった。


「……詩摘くん、あのね」

「どうしたの?」


 廃墟のなかは静まり返っていた。そう遠くない場所を車道が通っているはずなのに、外から聞こえてくるのは虫の声と、それから葉の擦れる音だけだった。心許ない光が、ぼんやりと白い壁を照らしている。月は、窓の反対側に位置しているようだった。


「……あのね、詩摘くんは、死ななくてもいいんだよ」


 言葉、かたちのない文字たちの優しい振動が脳を軽く揺さぶっている。木々の揺れる音に混じって、微かに、聞いたことのない鳥の声がする。意識がぼんやりと輪郭を失っていく途中、唐突に、呼吸ってどうやるんだっけと思った。喉が固まっていた。草の、青々しい匂いがした。


「詩摘くんまで首を吊る必要、ないよ」

「え、え、いや。だって」

「……ごめんね。ずっと、言えなかった。一緒に、いてくれなくなっちゃうと思って」


 二枚重なったコートに、紬の涙が落下する。上にあるのは僕のコートだった。生地に弾かれた雫は表面を滑走し、地面で砕けて死んだ。心臓が、針でつつかれたように痛んでいる。「え」、「いや、でも」、意味を持たない言葉を並べてはここですべき正しい返答を考えていた。


 だって、唯一僕がしてあげられるのは、彼女が寂しくないようずっと隣にいてやることだけだった。


「……本当に、ごめんね」


 ごめんね。ごめんねと言った。僕は適切な言葉を見つけることができなかった。紬がひとりで自殺するのを見届けたとして、この先、どうやって生きていけばいいのだろう。たとえば人生というものに何も意味がなかったとしても、こうして手を握って身体をくっつけて彼女の熱を感じるという行為が生きている状態に限りなく近いような気がしていた。


 僕は、死という根源的な恐怖なんかよりも、紬という大切な存在を失ったあとも生きていかなくてはならない義務みたいなもののほうがよっぽど怖かった。


 夢のなかで、白いワンピースの少女に会った。艶やかな長い髪が、優しい風に吹かれて膨らんでいる。知らないビルの屋上、しゃがんで僕に視線を合わせた彼女が、「一緒に幸せになろう」、目に涙を浮かべながら、満面の笑みで言った。空には、口がストローのような魚が浮かんでいた。


 * * * * *


 目を覚まして視線を移動させた先、紬がいたはずの空間は朝日に黄色く照らされているだけだった。彼女が抜けた部分のコートは、まだわずかに熱を持っている。唇に、柔らかい感触が残っていた。


「紬……?」


 視界はまだはっきりしていなかった。風の音に混じって、聞いたことのない鳥の声がする。低い角度から差し込む太陽を見て、それほど長時間眠っていたわけではないことに気づいた。


「紬」


 室内を見回しながらもう一度名前を呼んでみる。返事はなかった。紬のバッグは開いていて、そこに、首を吊るためのロープは入っていなかった。


 昨夜はなかなか眠りに就くことができなかった。月明かりが白い壁に浮かぶ様子を眺めながら、僕は、ふたりで生き残ったときのことを考えていた。


 たとえばなんでもないマンションの一室に住んで、きっと共働きの僕たちは忙しさですれ違う日々が続くけど、なんだかんだ上手く関係を続けるのだと思う。


 どちらかの誕生日には、家で盛大にパーティをしたい。雑貨屋で装飾品を買い揃えて、それからワイナリーでいいワインなんかを買って、紬は「クリスマスと変わんないじゃん」なんて言いながらも、弾けるような笑顔でケーキを頬張っている。十二月はイベントがいっぱいだね。紬が笑いながら言う。そうだね。僕も笑う。


 僕は紬に、そういう幸せを当たり前に感じていてほしかった。そういう未来を作ることができたかはわからないし、死ななかったとしても紬はこれまで受けた痛みを抱えて生きていかなければならないけど、それでもいままで刹那的にしか受け取れなかった幸せをもっと日常にしてあげたかった。


「ねえ、紬?」


 コートに残る、紬の微かな熱がやけにリアルだった。部屋の隅で、彼女の荷物は、綺麗にまとまっている。スーツケースはホテルに置いてきたため、彼女の手持ちはパソコンと『自殺するまでにしたい100のこと』が書かれたノートだけだった。


「ねえ」


 返事はない。聞こえるのは木々のざわめきと、知らない鳥の鳴き声だけだった。最後の項目、『首を吊って死ぬ』。部屋を出れば、そこに紬の死体がぶら下がっているかもしれない。外に出て、本当に、その光景が広がっていたら、僕はどうすればいいのだろう。「詩摘くんは死ななくていいんだよ」、その言葉への返答は、一体何が正しかったのだろう。


 紬のトートバッグを探り、ノートを取りだす。首を吊って死ぬ。それは彼女が決めた、偽物のエンディングだった。


 一緒に入っていた保冷剤はもう室温と同じになっていた。最後のページを開く。一度冷やされたおかげか、消されたはずの文字はたしかに蘇っていた。『首を吊って死ぬ』に重なって浮かんでいる、紬が最初に望んで、自分の手で消してしまった未来。


「好きな人と一緒に――」

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