6-11「薬指のちいさな光」
ぼうっと外を眺めているうちに気づけば自分も眠ってしまいそうになっていた。窓から差し込む日光と紬の体温が混ざり合い、意識が外側へ押し広げられている。思い返してみれば、これまでずっと眠たくて仕方がなかった。何をしていても退屈で、自分には生きる価値だってない。疲労で眠る幸せを知ったのは紬に出会ってからだった。その瞬間が本当の目覚めだった。
「紬、降りるよ」
「ん……」
のっそり。そんな表現がぴったりな動作で、紬は重さを引きずるみたいに起き上がった。彼女の肩を支えながら運賃の精算を行い、バスのステップを降る。最初に、芝生の広場が見えた。
首里城公園。観光するのはここが最後だった。最後、最後。なにかと「最後」を考えてしまうのは、まだ生きることに執着しているせいなのかもしれない。手放してから初めて重要さに気づくとはよく言ったもので、持っていない間はその重さを感じなくて済むのだから、惜しい部分だけを考えてしまうのは仕方のないことだった。
「赤い」
ぽつり、紬が言った。正面に、赤く彩られた立派な門が立っていた。紬の手を引きながら門を通り、また道なりに進んでいく。空は、昼とも夕方とも言えない、微妙な色をしていた。影が中途半端な長さをしていた。
「ねえ、私たちが生きている意味ってなんだろう」
雲の縁がぼうっと輝いていた。黄色い閃光に当てられ、雲が空に溶け込んでいる。輪郭がなくなっていた。「意味?」僕が訊き返すと、「うん、意味」静かで無機質な声が返ってきた。
「だって私はどうせ死ぬのに友達と遊んだりご飯を食べたり、無駄なことばっかりしてる。いままでに関わった人たちは報われない」
紬の視線の先、石の壁がゆるい曲線を描き、灰色の門に収束していた。生きる意味を見つけることは、零した水を必死にかき集めるようなことだと思う。存在が曖昧な意味を探し歩きながら、獲得した意味を落とさないようにしている。落下した意味を掬おうとしても、指の隙間から零れてしまう。
「僕は、これだけ生きてきたのに、結局何もわからなかった。いままで生きてきたことの意味なんて何も思いつかないよ。だから、たぶん、僕はやっぱりこうして紬と死ぬために生まれてきたんだと思う」
「……せっかく生まれてきたのに、死ぬために生きてるなんて悲しいな」
生物として不完全だった。生きるために、生きることはできなかった。何か拠り所がなければ満足に呼吸をすることすら叶わなかった。
「だって、なんのために生きてきたのか、全然わかんないし」
「でも、こんな私でも生きてたんだよって、苦しかったけどここまで頑張ったんだよって、誰でもいいから、知っていてほしい」
僕は紬が苦しんできたことも、今日まで生きてきたことも知っている。口に出そうとして、結局、声に変換されることはなかった。間もなく死ぬ僕が彼女の生きた証を持っていたところで何の意味もなかった。
「……石、石、石。石がいっぱい。カラフルなものより落ち着く」
足を前に出すたび、石畳を踏む軽やかな音がする。石段を上っていった先に、ひときわ豪華な赤い門が立っていた。そこからは有料区間になっているようだった。
「行ってみようよ、せっかくだし」
紬の言葉に、「うん」、迷うことなく頷いた。カウンターの前でするりと手が抜け落ちて、肌の熱く触れていた部分を風がふわりと通り過ぎていく。ふたりぶんのチケットを購入したあと、早速、受付の先へと足を進めた。
「静かだ。最後の場所って感じがする」
紬は両手を頭の上で組むと、上から引っ張られるみたいに、大きく伸びをした。「あーあ、楽しかったなあ」、落ち着いた声が静かな空気に溶け込み、それから風にさらわれていく。重さ、みたいなものはどこを探しても見当たらなかった。
「私、死ぬのかあ」
紬はそう言って何度か頷いたあと、口をわずかに開き、それからすぐに閉じてしまった。彼女が吐きだそうとした言葉は、ふっくらしたその唇より先、出てこられないようだった。口の端にあったはずの傷はもう見えなくなっていた。
世界遺産だって、すごいね。紬の声が脳のまんなかに入り込んできて、細胞のひとつひとつに染み渡ったようになっている。うん、すごいね。ありきたりな言葉が口を伝って空気を揺らしている。日が暮れ始めていた。空は燃えるように赤くて、定石どおりの夕焼けが目の前に広がっていることが、なんとなく嬉しかった。
視界に映る建造物のすべてを、ゆっくり、時間をかけて回った。そうすることで通常よりも遅く時間が経過していくような気がした。それでも時はいつもどおり過ぎていくから、やっぱり不平等だと思った。門を出たあと、近くの高台を目指して歩いた。
「……紬。生きる意味っていうのはたぶん、自分じゃなくて、他人のなかに生まれるものなんだと思う」
くるり、こちらを振り向いた紬の顔に橙色の光が乗っかっている。言語化された思考の、所有権が曖昧になっていた。紬が困ったように笑っていた。
「じゃあ、私の生きた意味は詩摘くんにあるから、君が自殺したらなくなっちゃうね」
「なくなるものでも、紬が生きている間はちゃんと意味があるよ」
空が暗くなるにつれて、ふたりぶんの足音が少しずつ存在感を強めていく。片方が増えてもう片方が減る現象は必ずしも反比例ではありません。僕はいつ、ノートを取りに戻ればよかったのだろう。僕たちは、互いに人生の価値を付与し合うことでしか生きられなかった。
高台からの景色は圧巻だった。麓から景色のちょうど背景に溶け込む場所まで、綺麗な街並みが広がっている。夕日が、建物の輪郭をぼうっと浮かび上がらせていた。
「紬」
世界中の人間が消えてしまったような気がした。周りには誰もいなかった。いまここで呼吸をしているのは、たしかに僕たち二人だけだった。
「どうしたの?」
「左手、出して」
「左手?」
「うん」
空が融けていた。世界が、不思議なかたちをしていた。胸の内側に秘めた体温みたいなものが空気に溶けだして、大気自体が優しい色をしていた。
「誕生日プレゼント……って言っていいかわかんないけど」
夕日を受けて浮かび上がる光を、左手の薬指にそっと差し込む。指輪、紬が髪を切っている間に用意したものだった。
「まだそんな年齢じゃないし、婚姻届とか式とかも無理だけど、でも、最後くらい紬を幸せにしたい」
息を吸い込む。冬なのに、暖かい空気をしていた。肺のなかでさらに強く熱を帯びていた。
「だから、結婚、しよう」
指輪の表面の、新鮮な光沢が目に刺さって、涙が出てきそうだった。目の内側の深い部分から熱が押しだされそうになっている。
紬は反芻するみたいに何度も頷いたあと、「お願いします」、いまにも泣きだしそうな顔で微笑んだ。潤んだ瞳が、堪らなく愛おしかった。
「なんで、詩摘くんが泣いてるの」
僕の頬に触れて、優しく撫でながら紬が言った。涙で震えた声は、寒いのに暖かい、おかしなこの空間にちょうど馴染んでいた。
「なんで、だろう」
なんで、という部分が情けなく響いた。気づけば紬の涙に引きずられて、視界が外側から境界線を失い始めている。気を抜いたら、何もかもが溢れてしまいそうだった。嗚咽は止められなかった。
羞恥と愛おしさでぐちゃぐちゃになりながら、彼女の腰に手を伸ばし、思いっきり引き寄せた。紬の表情を見たらそうせずにはいられなかった。死ぬ瞬間まで、ずっと紬の存在を感じていたい。ちいさくても懸命に生きた命がここにあることを証明したかった。
「幸せだなあ。私、もう死んでもいい。本当、夢みたい。生きててよかった――」
涙が夕日の色をしていた。生きている間はちゃんと意味がある。そう結論づけたはずなのに、明日になればすべてが消えてしまうのはやっぱり寂しかった。条件付きでなければ幸せになれないことが悲しくて堪らなかった。紬から身体を離し、そのまま唇を重ねる。紬の唇は柔らかくて温かくて、涙で、ほんの少し湿っていた。
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