6-10「やさしい水槽」

 ぼんやりとした視界の先で、なんでもないホテルの一室が輪郭を獲得していく。疲れが残っているのか、気を抜けばまた夢の世界に落っこちてしまいそうだった。


 すぐ隣に、紬の寝顔があった。彼女を見てから自殺旅行の途中であることを思いだすときもあるし、起きる前から「もうすぐ死ぬ」という感覚が脳にこびりついているときもある。この日は後者だった。


 紬が目を覚ましたあと、宿を出る準備を整え、それからすぐにチェックアウトの手続きを行った。明日自殺するから、今日が人生最後の日と言える。そして、この日は紬の誕生日でもあった。


 彼女の体調は回復してきているようだった。それでもまだ顔色がいいとは言えない。すこし休んでから出かけることを提案したが、彼女から返ってきたのは、「全然大丈夫だよ」という普段どおりの言葉だった。


 結局、押し切られるかたちで最初の目的地へ向かうことになった。スケジュールを組み直して警察に捕まっても困るし、動けるのであれば彼女の言葉をそのまま受け取るのが正解なのかもしれない。


 適当な理由を付けて、フロントで保冷剤をもらってからホテルを出た。やはり紬には綺麗な状態で死んでほしい。彼女自身の望む姿で、望んだ形で死ぬことによって、これまでの苦しみが少しだけ緩和されるのだと思う。


 紬は右手で頬の痣を冷やしながら、左手で旅行のしおりを読んでいる。最後の日のページに、それ以外の日と大きな違いはない。僕たちは日常のなかで死を迎えるつもりだった。


 水族館へ行き、首里城を回る。それが人生最終日のスケジュールだった。水族館から首里城まではかなりの距離がある。少ない日数で彼女のしたいことをすべて叶えるには、強引なスケジュール構成に頼るしかなかった。


「やっぱり冷たい。冷たくて、痛くなってきた」

「無理に冷やさなくてもいいと思うよ。出発したときからだいぶ治ってきてるし」

「じゃ、いいか」


 紬はそう言うと、頬から保冷剤を離し、トートバッグのなかへと放り込んでしまった。結露で旅行のしおりやノートが傷む可能性を考えたが、この先、そのふたつが特別な役割を果たすことはないだろうから問題はなさそうだった。それに、この旅行が始まってから、紬はノートに日記を付けなくなっている。


 大晦日が近いせいか、バスの乗車率はゆうに百パーセントを超えていた。紬と身体をくっつけたまま、ぼうっと吊革に掴まっている。今朝、最初に彼女の体調を訊いたせいで、「誕生日おめでとう」の言葉を差し込むタイミングを完全に失ってしまっていた。


「たのしみだなあ」


 入口でチケットを購入し、早速館内に足を踏み入れる。水族館に来るのは、半年前、紬に連れられて以来だった。館内の静かな雰囲気に当てられて、身体が外側から押し固められたようになっている。気を紛らわせるために握った紬の手はまだ熱を帯びていた。


「あ、ヒトデだ。なまこもいる」


 ロープを選んで水族館に行ったあの日、僕は初めてクラスメイトの死にたい理由を聞いた。家族関係の悩みがある者同士シンパシーを感じていたのに、言葉を交すたび、共鳴していたはずの心がどんどん引き離されていく。気づけば共感は、守りたいという気持ちに変わっていた。


 パノラマ水槽のなかで、カラフルな魚たちがぐるぐると泳ぎ回っていた。珊瑚の隙間から、黄色い魚が周囲を窺っている。水槽の様子で簡単に気分が上下するのは、死期が近づいているせいなのかもしれない。


「なんか、懐かしいよね。ふたりで水族館に来るの」

「そっか。あの日から詩摘くんと出かけるようになったんだ」

「正直、そのときは自殺するって信じてなかったな」


 貼り付くように熱帯魚を眺めていた紬は、一度水槽から顔を離し、それから「あはは」と歩幅の広い声で笑った。彼女の作り込まれた明るさのせいで、当時の僕は、紬と「自殺」を上手く繋げることができなかった。


「信じてないって、そんな気がしてたよ」


 彼女はそれだけ言うと、数メートルだけ足を進め、今度は別の水槽に貼り付いてしまった。その視線の先で、二匹の熱帯魚が宙ぶらりんになっている。


 意外だった。自殺を信じていることを理由に付き合わされていると思っていた。


「じゃあ、どうして僕を誘ったの?」

「あ、サギフエ」


 繋いでいたはずの手がいつの間にか離れていた。彼女が貼り付いている水槽で、ストローのような口の魚が水面に近い場所を浮遊している。回答を受け取り損ねた僕は、ただ彼女のあとを追うしかなかった。


 ひとつひとつの水槽をじっくり眺めながら、順路に沿ってゆっくりと進んでいく。もしかしたら僕は水族館が好きだったのかもしれない。暗くて静かな雰囲気は、何か考えごとをするのにぴったりだった。


「詩摘くんなら」、柔らかくて心地よい思考のなかに、ぽたりと弾むような声がする。すぐに、先ほどの質問に答えようとしているのだと気づいた。


「詩摘くんなら、一緒に死んでくれると思ったから」

「じゃあ、紬が想像してた未来になったね」

「冗談だよ。まあ、そんなことより、結果的にはたぶん、自分を肯定してくれる人の側にいたかったんだと思う」


 蛍光色の魚が泳いできて、紬の正面でぴたりと停止した。人々の喧騒から外れた薄暗い空間の端っこで、紬の笑顔が水槽の光に照らされている。彼女が顔を上げた瞬間に魚も動き始めたので、僕は、紬が魚と対話していたかのような錯覚に陥った。


 死の間際には不思議な力が働くのだと思う。幻想的な事象を、あたかも現実のように映しだしていた。死そのものが幻のようだから、そう感じてしまうのは当然のことだったのかもしれない。


 拓けた空間に足を踏み入れたとき、一瞬、視界が狭窄したようになった。目の前に、メインの大水槽が広がっていた。周囲の明度が落ちて、顔を上げた先、ジンベエザメが白い光を遮っている。巨体が音もなく泳ぐ姿から、大空を旅する真っ白な雲を連想した。


「綺麗。大きい」

「うん、すごいね」


 ジンベエザメの横を数匹のマンタが通り抜けていって、僕たちが水槽の正面にやってきたころ、そのうちの一匹がくるりと身を翻した。他の観客たちも、大水槽の景色に圧倒されているようだった。


 紬は水族館が好きな理由を「死んでもいいと認められているみたい」と冗談めかして語っていたが、僕は、いま、彼女がそう考えていた理由がわかったような気がした。無機質なものを心に当て続けていると、負の感情が融解していくのがわかる。心から死への恐怖が抜け落ちて、身体がほんの少し、軽くなっていた。


 水槽を見上げるのに疲れてきたころ、僕たちは次の階へ足を進めることにした。彼女の手を握り、ゆっくりと階段を昇ってく。いま思いだしたみたいに、「ああ、最後か」、紬がそっと言った。照明が、一段階暗くなっていた。


「最初はこうなるなんて思ってなかった。紬と一緒に死ぬなんて」

「結局、私の願ったとおりになっちゃった。いままで願い事が叶ったことなんてなかったのに」


 声、かたちのない言葉にまた胸を締め付けられたようになっている。紬の言葉が、暗い絨毯の上に転がっていた。彼女の手は、いつもより熱を持っていた。


 人生というのはいいことも悪いことも、予想どおりにいかないことのほうが多い。これまで正確に未来を思い描けたことなど一度もなかった。


「あんまり最後って感じ、しないね」

「そうだね」


 静かで無機質な雰囲気に当てられて、身体が、自分の最期を受け入れようとしていた。四肢の先端から現実味のような感覚が消失し、紬と触れている部分だけが実体を帯びている。眠ることと死ぬことは、たしかに似ているような気がした。


 水族館を鑑賞したあと、遅めの昼食を取り、再びバスに乗り込んだ。やはり紬は体調が悪かったのか、バスが発車してからすぐに眠ってしまった。


 バスは別世界のような道を走っている。まどろんだ意識がぼうっと浮かびあがっていた。起こさないよう、紬の頭を優しく撫でてみる。一瞬強く握り返してきた手から、すぐに力が抜けていった。


 柔らかい髪越しに、紬の体温が伝わってくる。最後の日なのに、時間の経過は普段と全く変わらなかった。例えば人の悪意から外れたこのちいさな箱の、ここでしか感じることのできない彼女の体温をもっと日常的に触れ続けることができていれば、僕たちはもっと等身大の幸せを享受することができていたはずだった。

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