6-9「悲しみの滴る音がする」
真っ黒で重たい気持ちに心を支配されていた。感情が、そのまま身体の重さに変換されている。ふと下から突き上げられる感覚があって、目を開いたとき、自分がフェリーに乗っていたことを思いだした。
疲労と船酔いがぐちゃぐちゃに混ざり合い、胃の中身が膨張したようになっている。フェリーは個室ではなく、大広間のような場所に、それぞれ乗客ぶんのマットが敷かれているだけだった。壁掛けの時計は、午前七時を示していた。
天井を眺めるのに飽きたころ、視線を落とし、隣で眠る紬をじっと見つめてみた。このちいさな身体に詰め込まれた膨大な量の憂鬱を考えるたび、僕はその悲しみを丸ごと受け止められるのか不安になってしまう。等間隔に敷かれたマットのひとつに、輪郭を得た悲しみが乗っかっていた。
紬は音を立てずに眠っていた。わずかに上下する肩だけが生きている証だった。平穏、みたいなものを必死に取り繕って生きてきたのに、こういう結末を迎えるしかないのだから本当に不平等だと思う。口の端にあった傷は、凝視しないと気づかないほどまで回復してきていた。
船が大きく揺れて、身体の軸がふわりと浮遊する。その衝撃で起きてしまったのか、紬は薄く目を開くと、「あ、詩摘くん」、消え入りそうな声で言った。
「詩摘くんが、いなくなっちゃったかと思った。夢だったんだ」
「いるよ、ここに」
「うん。よかった……」
糸のようになっていた目が、またぼんやりと閉じられていく。彼女は長い間家に囚われていたし、もう四日も旅を続けている。ゆっくり休む暇なんてなかっただろうから、彼女の身体には相当な疲労が溜まっているはずだった。ブランケットの外に投げだされていた手を握ると、ほんの少し、紬の口角が上がった。
空いていた右手を伸ばし、紬のトートバッグから生成り色のノートを抜きとる。自殺するまでにしたい100のこと。その項目も残りわずかになってしまった。運命的な出会いはいつどこで起こるかわからない。だからこそおもしろいという意見もあるだろうが、僕は、そんな不安定なものに紬の行く末を任せたくなかった。
紬の自殺が避けようのないできごとだったとして、いま彼女が幸せに感じてくれているのだとしたら、僕はもっと早く彼女と自殺をともにする未来を知っておきたかった。そうすれば、以前の旅行のときみたいに彼女を傷つけることはなかったはずだった。
紬が二度目の眠りから目覚めたころ、昼食を取るために船内の食堂へ足を運んだ。ときどき船が大きく揺れて、そういうときは毎回、転ばないよう壁に手を伸ばしている。乗船人数の割に、食堂は閑散としていた。僕たちはそれぞれうどんを注文した。
「船で二十四時間って、意外と遠いんだね。……いや、近いのかな。うん、わかんないや」
口に含んでいたものを飲み込み、「どうだろうね」、紬の言葉に返事をする。それからは何か言葉を吐きだすのも重たく感じて、フェードアウトするみたいにふたりの間から会話がなくなっていった。機械の低く唸る音、それから麺をすする音がテーブルの上でぼんやりと揺れている。音が実体を持っているような気がした。
昨晩の入浴を終えてから、紬は白いワンピースを着なくなっていた。過去を清算したという、肯定的な捉え方をするべきだろうか。
「……もう、食べれない」
船が揺れて、グラスの水がちいさく波を打つ。かたん、紬がトレーに箸を置く。彼女の箸はまだ、麺を二、三度掴んだだけだった。トレーをテーブルの端に避け、机の上で腕を組み、それからゆっくりと顔を埋める。耳が赤くなっていた。
「大丈夫?」
こくん。頷いた拍子に、顔の上半分が浮き上がる。視線は机に落っこちたままだった。前髪をかき分けて触れた額は、自分のものより、少し熱を持っているように感じた。
「大広間に戻って、少し休もうか」
旅の疲れが出ているのかもしれない。下船の時刻までまだ余裕がある。紬はまた顔を伏せて、それから首を横に振ると、「風、当たりたい」と言った。
ふたりぶんの食器を返却し、紬の肩を支えながら甲板を目指す。重心が不安定になっていた。紬はいまにも崩れ落ちてしまいそうだった。階段に足を掛け、一段ずつゆっくりと昇っていく。踊り場までやってきたとき、突然紬が「ごめん」と言った。
「ビニール袋、欲しい」
ポケットからビニール袋を取りだし、急いで紬に手渡す。彼女は僕に背を向けると、そのまま嘔吐してしまった。咳き込んでいる彼女の背を、包み込むようにさする。
「……見ない、で」
紬から、詰まるような声がした。薄く、目に涙が滲んでいた。視線を逸らしたあとも、僕は変わらず彼女の背中をさすることしかできなかった。
鉄製の重い扉を開き、甲板へと足を進める。昨夜も一度だけ足を踏み入れたが、そのときは雨が降っていたせいで満足に風を感じることができなかった。運のいいことに、昨夜の雨は上がっていたようだった。僕たちは誰もいない甲板の端っこに腰を下ろすことにした。
鳥の甲高い鳴き声がする。「ごめんね」、紬が言う。外は、天気予報で見た気温よりもずっと暖かかった。
海というのはどこで見ても同じ出で立ちをしている。相変わらず水面は丸めて開いた紙のようだし、その先端で日光が輝いている姿もこれまでと全く変わらなかった。海を決定づける唯一の要素は見ている側の感情なのかもしれない。視界に映る青は、深く、重たい色をしていた。
「……思いっきり泣いてみたいな」
ころん。紬の首が胴から落っこちたみたいになって、そのままゆっくりと僕の肩に着地した。船の上げた飛沫が風に乗り、霧雨のようになっている。
「いいよ。周りに誰もいないし」
「……私、もう大人だよ」
「……たまには子供みたいに大声で泣いたほうがいいときもあるんじゃないかな。たしかに苦しい気持ちがなくなるわけじゃないけど、必要なんだよ、きっと」
紬はいつか、上手に泣くことができないと言っていた。難しいかもしれないが、人生自体に意味のない行動だったとしても、心を軽くするようなことに時間を費やす必要があると思う。
「いつも見る夢があるの。自殺する夢。縄を首に掛けて、ふうって息を吐いて、もう苦しまなくていいって安心して、それから椅子を蹴るの。でもその瞬間に、ものすごく怖くなるんだ」
何度も心を殺してしまったから幸せな夢が見られないのだと思った。上手く生きる方法の模範解答がほしかった。唐突に、いつかはきっと報われるという言葉を思いだした。
「……怖い。死ぬのが、怖い」
ひとりごと、みたいに紬が言った。船が揺れて、一瞬、彼女の頭が浮き上がる。心臓から全身へ、鈍い痛みが押しだされていく。もしふたりで生き延びたとしても、いつかは報われるなんて言葉に正当性を見いだすことなどできそうになかった。「いつか」にたどり着くまでには、途方もない苦しみがある。
「……紬は、『もし自殺しなかったら』って考えないの?」
「うん、考える。でも、生きてるほうがずっとつらいんだよ。本当はみんなみたいに希望を持って生きてみたい。でも、こうするしか方法がないからどうしようもないんだ」
空気の、重たく吐きだされる音がする。鳥が鳴いている。船が揺れる。半径一メートル、僕たちの触れている空気だけが乾いているような気がした。
「本当に自殺って、いけないことなのかな。私はそれ言われるたびに、逃げ道、塞がれた気分になる。誰も、理解しようとしてくれないんだって。本当の意味で寄り添い合えるのは、死にたい人同士か、死にたくない人同士だけなんだと思う」
自殺はいけないという風潮はたしかに存在していて、一般論からしたらそれは正しいのかもしれない。でも僕は、せめて死にたいという彼女の気持ちを肯定してあげたかった。どう考えても二極化してしまうことが悲しかった。
「冷たい」
また海水が飛沫になって降り注いだとき、ほんの一瞬だけ、目の前に虹が架かっていた。「ねえ詩摘くん、いま」、「詩摘くんそっち」、「虹」、「虹だよ」紬の声を聞いて、心が躍ったようになっている。紬が顔を上げて僕に微笑んだとき、心が溶けていくような気分を味わった。悲しい気持ちは海水に溶けないから、正しい溶媒を用意する必要があった。
「体調、大丈夫? どこか途中で下船して休もうか?」
「ううん。日数、伸ばして警察に捕まったら困るし」
「そっか」
「……詩摘くん。どちらにせよ、警察に追われる身になってたと思うよ」
紬が、内側で笑いを堪えるみたいに言った。「そうかな」「そうだよ」船と一緒に、魂みたいなものまで揺れた気がした。彼女が求めているのは児童相談所とか警察とかそういう不安定な解決法ではなく、確実に苦しみから逃れることのできる自殺という手段ただひとつだけだった。それに、もう、彼女を幸せに見送る機会など二度と訪れないような気がしていた。
「最後まで一緒にいるから」
紬の目がゆっくりと伏せられる。僕の肩に彼女の頭が乗る。「うん」、重く滴るような返事の、声だけが聞こえた。
「なんか、私、いまなら幸せな夢を見られる気がする」
船が揺れて、海水がふわりと宙を舞う。今度は、虹を見ることができなかった。紬は大きく息を吐きだしたあと、それきり何も話さなくなった。声を掛けようとして、やめた。
船の揺れに合わせて、意識が浮かんだり沈んだりしていた。いつの間にか、紬は眠ってしまったようだった。頭を撫でてみても軽く抱きしめてみても、気づく様子はなかった。紬の側から絶えず熱が流れ込んできていて、身体のなかで、何かが破裂しそうになっている。
わざわざそうする必要はなかったのに、指を立てて、残りの日数を数えてみた。人差し指と中指、二本の指が寒風にさらされている。
何もできなかった。明後日の首を吊るその瞬間まで、僕は重さを抱え続けるしかなかった。一時しのぎにしかなれなかった。
「……僕は、たぶん、君と死ぬために生まれてきたんだと思う」
彼女に伝えるには照れくさかったし、起こさないよう、囁くみたいな声で言ってみた。人前で転んだときのような、微妙な気まずさを感じた。
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