6-8「白いワンピースの裾が汚れている」

 十二月二十八日、商店街で昼食を摂った僕たちは、この日メインの厳島神社へ足を運ぶことにした。


「最期くらい、ゆっくりさせてほしいよね」


 濁った色の空からは、いまにも雨が降ってきそうだった。それでも所々に雲の薄い場所があるのか、稀に、柱状の日光が落っこちてくることがある。今朝のワイドショーで、広島は曇りのち晴れと予報されていた。曇天に好きも嫌いもないが、他の人は多少憂鬱な気分を抱いているだろうから、相対的に見れば今の僕はいつもより普通に近い状態だと言える。


「あ、鹿」

「ほんとだ」


 神社へ続く砂利道を、鹿の群れが歩いていた。耳の表面をくすぐるような足音が、僕たちの横をゆっくりと通り過ぎていく。ふと視線を逸らした先、海に、大きな鳥居が浮かんでいた。ちょうど潮が満ちているようだった。


「厄介だと思うんだよね」

「鹿が?」

「ううん。違う。幸せになりたいっていう気持ちが、っていう話」

「ああ」


 真っ直ぐ伸びた通路の端っこ、灯籠と松の木が等間隔に並んでいた。風が吹いた拍子に、針状の葉が二、三枚落下する。地面に、本体から切り離された鋭い葉が散らかっていた。


「死ぬまでの一年間、やりたいことをして生きてきたわけでしょ。いま、私はとっても幸せ。でも、こうして幸せになると死ぬのが惜しくなってくるから、厄介だなって」


 山の斜面のなだらかな場所で、二匹の鹿が寄り添うように座っていた。紬のなかに死なないという選択肢はない。彼女にとって妥協しなければならないのは「幸せになりたい」という気持ちのほうだった。


「でも、死ぬって決めなければこうして君と幸せになることはなかったから、うん、これが正解だったんだよ」


 うん、うん。紬は自分に言い聞かせるみたいに何度も頷いた。僕は彼女の手を握ることしかできなかった。視界の端で、紬が眉尻を下げて笑っていた。


 受付で入場券を購入し、境内に足を踏み入れる。昨晩、ホテルにあったパソコンで旅館や交通手段の予約を取り直しておいた。前払いのぶんを早く精算しなければならなかった。神社のチケットを収めるために取りだした財布の、なかで並んでいた一万円札は残り三枚になっていた。廊下、年季の入った床を踏みしめるたび、木の軋む音に脳を揺さぶられたようになる。


 今朝、紬が書いた小説を読んだ。登場人物に僕と紬の名前が使われていたことはさておき、恋人が自殺するから、それについていくという話だった。


「なんで主人公は、恋人の自殺を止められなかったんだろう」


 五分ほどで読み終わったその短編で、結局主人公は、恋人の自殺を止めることができなかった。


 海を眺めていた紬が、ゆっくりとこちらを振り返る。それに伴い、彼女の顔から日の光が抜け落ちてしまった。


「苦しんで生き延びるより、全部放り投げて死んでしまうほうがずっと幸せなんだと思うよ」


 主人公はきっと、それを知ってたんだよ。言い聞かせる、みたいに紬が言った。彼女に続いて吐きだされた木材の悲鳴が、耳の内側でぐるぐると回っている。受付のときに離れた手を握るため、小走りで彼女のあとを追った。


 主人公が恋人の自殺を止めなかった理由は、紬に聞くまでもなく、きちんと本文で説明されていた。紬の回答を聞くことによって、自分を許すための効果的な言い訳を探そうとしていた。主人公が恋人と一緒に死んであげなかったこと、それから紬に「死なせてあげる」以外の選択肢を用意できなかったことが悔しくて堪らなかった。


「これ、そろそろ捨てないと」

「捨てるの?」


 紬はワンピースの生地をつまみ上げると、ひらり、ちいさな波を作った。いつの間に付着したのか、裾が粗い砂で汚れている。思えば、紬は新しい服を一度も着ていなかった。白いワンピースを洗濯して、次の日も袖を通す。同じことを繰り返していた。


「うん。このワンピース、お父さんとお母さんが買ってくれたんだ。結構前の話だけどね。これ着てれば、昔に戻れるんじゃないかって。優しいお母さんと、私と遊んでくれるお父さん。ふたりは喧嘩なんてしないし、毎日、家族みんなで美味しいごはんを食べるんだ。それで、休みの日にはみんなでお弁当作って、近くの公園でピクニックするの。……馬鹿みたいだよね」

「そんなことないと思う」


 いくら人生を諦めてみても、幸せというのは無意識に追ってしまうものなのだと思う。こればかりは仕方のないことだった。


 紬は「あはは」と陽気に笑ったあと、「馬鹿って言ってよ」、いつもの得意げな笑顔で言った。「捨てるんだ」「うん」「いいの?」「うん」、やりとりがすぐ側の水面に落っこちたみたいに消えていく。ちょうど水面が揺れたせいで、本当に落ちた、と思った。


「捨てればそういう理想もなくなると思う」


 廻廊の先には、舞台のような拓けた空間が広がっていた。正面に、さきほどの大きな鳥居が佇んでいる。曇り空から降ってきた鈍い光のせいで、海まで濁った色をしているように見えた。天気が悪いときに晴れの日の心地よさを忘れてしまうのはどうしてなのだろうと唐突に思った。


「私、いままでは何をしてても楽しくなかったんだ。友達と話してても、ふとしたときに我に返るの」

「うん。僕も、そう思ったことがある」


 心当たりがあった。身体が現実感みたいなものを取り戻せば、もっと上手に生きていけるような気がしていた。紬はこちらを振り向いて頷くと、「うん、同じだ」、繋いでいた手を握手するみたいに揺らした。


「でも、私、死ぬって決めてからなんだかようやく身体が生きてるって感じがする。うーん。何言ってるかわかんないね」

「どうだろう」


 どうだろう、とは。紬がこちらを覗き込んでくる。言葉を整理するため、彼女に乗っかっていた視線を山の影へ移動させた。


「最初、紬はもっと明るくて、怖いものなんかなくて、何に対してもポジティブなんだと思ってた。でも、もっと心のなかで、一人で抱え込むような人だったんだなって。僕とは違って、それでも前を向いているから本当にすごい」


 ふわり、春のような、柔らかい風を感じた。水面に、丸めた紙を開いたような皺ができている。海に光の粒が落っこちている。


「詩摘くんは自分が許せないんだよ、きっと」

「許せない?」

「うん。自分が嫌いなんだよ。だから『どうせ死ぬからどうなってもいい』っていう投げやりな気持ちがないと、幸せとか楽しいとかを感じてる自分を許せないんだと思う」


 そうかもしれない、と思った。未来がないことを前提にしていないと、たしかに僕は自分を幸せにしてやれなかった。僕がいままで感じていた幸せは、紬の望みを叶えることの副次的なものでしかなかった。


 死は免罪符のような役割を持っている。どうせあと数日で死ぬからどうなってもいい。そういう考えがなければ、間接的にでも両親を殺した自分を許すことができなかった。日常が、夢の延長線上に存在している。身体が夢と現実の間を行ったり来たりしていた。


「うん、たぶんそうだ」


 紬はそう呟くと、自分の言葉を味わうみたいに何度も頷いた。根本的な部分で彼女と似ているような気がした。僕はもっと早く彼女の内面に踏み込むべきだった。


「詩摘くん。フェリー、何時だっけ。鹿児島から沖縄の」

「六時。広島駅からの新幹線が、三時前くらい」

「そろそろ出ないといけないのか」

「うん」


 どちらが言うでもなく、僕たちは自然と出口を目指して歩いていた。廊下の軋む音が背中に貼り付いている。寿命を迎えるまであと三日だった。「寿命」というのは天寿を全うするまでのことを表す単語だが、僕たちはおそらくここで死ぬ運命だっただろうから、この表現は決して間違っていない。


 紬がバッドエンドの小説を書いた理由をいまさらになって理解できたような気がした。彼女は、たぶん、救いのない人間がちゃんと存在していることを証明しようとしていた。


 遠くでカラスが鳴いていた。砂利を踏む。紬の手を取る。白いワンピースの裾が汚れている。

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