6-7「不明品の残骸」
一応、近くの服屋で帽子と眼鏡を購入した。気持ちばかりの変装を行い、荷物を受け取るために新大阪駅を目指す。もちろん携帯の電源は切っておいた。
受け取りカウンターを出たあと、僕たちは急いで切符売り場を目指した。元々は夕方ごろから広島へ向かうつもりだったので、チケットを払い戻し、それから一番早い時間のものと取り直した。偽名に気づかれていることを考え、一応、別の名前を入力しておく。
新幹線に乗り込むまで生きた心地がしなかった。捕まれば紬にどんな仕打ちが待っているかわからないし、自殺を幇助した僕もただでは済まない。
新幹線が走りだしてから、僕は初めて上手く空気を吸い込むことができた。「新幹線って早いんだね」、隣から呑気な声が聞こえてくる。「たしかに」笑いながら返事をする。気負うのは自分だけでいい。
しばらく外を眺めているうちに、いつの間にか窓の外は山ばかりになっていた。橙色の光が、鋭く眼球に突き刺さっている。山の上で、雲が燃えていた。
「追ってこないといいね」
紬が言った。例えば彼女がひとりで自殺してしまったとしても、そのあとを追って一人で死ぬ勇気はない。好きな人と一緒でないと命を絶つことができないのに、悲しみに侵されて一人生きていく未来も見えないからどうしようもなかった。
「大丈夫、絶対に守る。最期まで一緒にいるから」
「……うん」
紬は一度目を伏せると、次に一瞬考え込むような素振りをして、それからちいさく笑った。
思えば、これまで未来を見据えられたことなど一度もなかった。両親を失ったことが転機だったのか、そもそも自分はこういう人間として生まれ落ちてしまったのか、見当も付かなかった。
自殺。紬と話すまでは自分とかけ離れた世界でのできごとだと思っていた。両親が自殺したかもしれないことから目を背けようとしていた。
僕は、たしかに自殺志願者の心理を知りたかった。あの教室で物理のノートを見つけたとき、それこそが人生の転機だったのかもしれない。殻のなかで蹲っていただけなのに、知らないうちに何かが僕を引っ張りだそうとしていた。顔を上げた先に、紬がいた。あの日自殺を止めた瞬間、彼女と一緒に首を吊る義務が生まれていたはずだった。
空はすでに重たい色をしていた。新幹線を降り、広島駅で各駅停車に乗り込む。『厳島神社を見る』、残り少ない項目を叶えるために、今夜泊まる旅館は宮島で予約していた。
フェリーを降りたとき、潮風に混じって冬の匂いがした。乗り場を抜け、島内に足を踏み入れる。最初に見えた商店街は、時間のせいか、シャッターの閉まった店ばかりだった。
街灯のぼうっと浮かび上がる様子を眺めていたとき、ふと、半透明だと思った。空とか雲とかそういうかたちのあるものではなく、かといって自分がそうなっているわけでもなくて、ただ漠然と半透明になっていた。自分の心とかよりもっと抽象的な、生きていることのような事象が透けてしまっていた。
「星、綺麗」
声、ゆっくりと滴り落ちるような音に引きずられて視線が上を向いている。たしかに、いままで見たなかで最も、満天の星空に近い状態をしていた。
「いまごろ、みんなは何してるんだろう」
「みんな?」
「うん。クラスのみんな」
「呑気にスマホでも見てるよ、たぶん」
「あーあ。私、こんなところで何してるんだろうな」
紬の声が、暗くて静かな空間に悲しく響いている。遠くの空に、山の黒い陰が見えた。空に洞窟ができていた。その部分だけ星はなくて、ぽっかりと空いたその穴は、きっと僕たちを飲み込もうとしている。
「ふとしたとき、我に返るの。死にたい死にたいって、馬鹿みたいなんじゃないかって」
ちいさなスーパーの店頭に、みかんが並べられていた。一袋三〇〇円。薄い街灯のおかげで、手書きのプライスカードがなんとか暗闇から顔を出している。死にたいと思うことは悪いことではない。痛みを抱えて生きることを憂鬱に思う必要はない。文章、頭のなかで組み立てた言葉の羅列が、声に変換されないまま地面に落っこちてしまった。暗闇に紛れて、見えなくなってしまった。
「たとえばお母さんが死んだとしても、私はもう元に戻れないと思う。人が怖くて、上手く話せなくて、自分が嫌になって、もっと上手くいかなくなる。私の人生って、なんだったんだろう。死ぬために生まれてきたみたい」
「……こういう結果にはなったけど、僕は紬に出会えてよかったと思う。たくさん、苦しませちゃったけど」
シャッターの閉まる音がした。スーパーが閉店の時間を迎えたようだった。店頭に並んでいたみかんが大きな箱に放り込まれていく。プライスカードはもう読み取ることができなかった。
「傷、残るかな」
「どこかで、保冷剤もらおう。冷やせば少しはよくなるはずだから」
遠くの山のてっぺんに、白い靄が掛かっていた。霧なのか雲なのか、ここからでは見分けることができない。
小説、書かなきゃ。紬が言った。ふわり、彼女が足を踏みだすたび、白いワンピースの裾が波を打つ。端っこが、悲しみで汚れていた。
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