6-6「警察手帳」
人がわざわざ生きることに意味を見いだそうとしてしまうのはなぜなのだろう。いくら考えてもわかるわけではないのに、そんな問いを頭のなかで反芻しては絶望するを繰り返している。
「大阪駅周辺って、思ったより東京っぽいんだね」
喧騒の隙間からやけに明るい声が聞こえて、その瞬間、意識が本来あるべき場所へ引き戻される。自分が紬と手を繋いで歩いていることを唐突に思いだした。
「うん、たしかに」
大阪に来るのはこれが初めてだった。関西の観光地といえば、修学旅行で訪れた経験があるせいか、なんとなく京都の街並みが思い浮かぶ。
最期の旅は時間に縛られないことを想像していたが、家で惰性のまま生きているときのほうが随分と時間的な自由は多かったように思う。旅館のチェックインやチェックアウトに追われることもあるし、日本のあちこちを旅するのだから移動時間もかさばる。それでも、時間に縛られてでも手にするべき充実みたいなものがたしかにあった。
「グリコの人見たら、なんだか満足しちゃった」
「他に何かなかったっけ。リストのなかに」
「『大阪でお好み焼きを食べる』」
「よし、美味しそうな店を探そう」
ワンピースから覗く脚は、昨日よりも黄色い部分が増えていた。左手で紬の手を取り、反対の手でスマートフォンを握る。恋人としての関係は明らかに進展しているはずなのに、手に伝わる体温が肌の感触を思いださせてくるから、なんとなく彼女の顔を直視できなくなってしまう。
彼女の若干冷えていた指先を握り直すと、「あったかい」、柔らかい笑顔が返ってきた。
目的の店へ向かっていると、大通りを伝って歩いた先、下町のような商店街が広がっていた。ちょうど昼時だからなのか、そこら中からソースの焦げる匂いが漂ってくる。アーケードが設けられているせいで匂いが籠もっているのかもしれない。
今朝は京都の旅館を出たあと、すぐに大阪へ移動し、なんばを観光した。旅館の朝食や食べ歩きを充分楽しんだはずなのに、そこらから漂ってくる美味しそうな匂いのせいで、五分目まで埋まっていた腹のゲージが数段階低くなったような気がした。
商店街には様々な店が並んでいた。居酒屋やお好み焼き屋はもちろん、パチンコやカラオケなどの娯楽施設もある。この周辺だけで一日を潰せそうだ。
「あ」
「どうしたの?」
目的地が見えてきたころ、突然紬が立ち止まった。その拍子に、繋いでいた手から引力が働いたようになる。紬が指した先にはちいさな煙草屋があった。
「あ、『煙草を吸ってみたい』」
「うん、そうそう。よく覚えてたね」
「寄ってく?」
「うん」
店の前には、パッケージの写真がずらりと並んでいた。店の奥には、何か煙草に使う器具のようなものも置かれている。「どれがいいんだろう」、右から左へ滑るように視線を動かしていた紬は、結局、前に並んでいた男性と同じ種類のものを注文したようだった。
「一緒に吸ってみようね」
「え、僕も?」
「当たり前じゃん」
「何が?」
煙草を購入し、お好み焼き屋で昼食を堪能したあと、僕たちは次に心斎橋のほうへ向かうことになった。どうせならなんばから直接足を運んだほうが近かったが、旅行の計画に時間を使えなかったため、こういう不具合があるのも仕方がなかったと言える。
「首が短いキリンは、果たしてキリンと言えるのか……。詩摘くんはどう思う?」
「なんの話?」
「動物園の広告があったから、つい気になって」
「飛躍しすぎてない?」
梅田駅はやはり、東京を思わせる人の混み具合をしていた。切符売り場の列に並び、ICカードに現金をチャージする。「あの、君。ごめんね、少しいいかな」、背後から男の声がしたのは、ちょうど会計処理を終えたときだった。
「は、はい……?」
振り返った先にいたのは、三十代くらいの男性だった。訳もわからず、つい男の顔を凝視してしまう。
「他のお客さんの邪魔にならないように」
笑顔で言う彼に従い、道端に移動する。なんとなく顔を上げたとき、列に並んでいる紬の目を丸くする姿が見えた。
「私はこういう者なんだけど」
気づけば、僕を取り囲むように数人の男が立っていた。状況を掴むことができず、頭のなかが疑問で埋め尽くされる。男がコートの内ポケットに手を運んだとき、突然、何かに腕を強く引っ張られた。
「私たち、急いでるので!」
ぐらついた視界のなか、男が黒い手帳を取りだしたのがわかった。フェードアウトするみたいに、どんどん男の声が薄くなっていく。「走って!」、紬の叫ぶみたいな声を聞き、ようやく自分が彼女に引っ張られていることを理解した。
すれ違う人と肩がぶつかり、軸のずれた身体が転倒しそうになっている。布の擦れる音や空気を切る音に耳を覆われ、とうとう男の声が聞き取れなくなってしまった。スーツケースが地面を擦る音がやけに大きく聞こえる。通行人たちが壁になり、追っ手を阻んでくれているようだった。
駅を脱出し、赤信号を渡り、それから人の多い商店街を抜けてからも彼女は足を止めなかった。「紬!」、間隔の短くなってきた呼吸の合間になんとか名前を呼ぶ。紬は二度目でようやくスピードを緩めてくれた。
「どう、したの……?」
「……警察、だった」
「警察?」
「府警じゃない。手帳に、うちの県の名前があった」
彼女の言葉を聞いて、ハッとした。さきほど男が取りだしたノートはたしかに警察手帳のようにも見えた。もしかしたら、すでに母親か龍介が紬の捜索願を出していたのかもしれない。
「……どうして居場所がわかったんだろう。早すぎるよ」
たしかに、紬の居場所を特定できる決定的なものは何も残していないはずだった。旅館や交通手段の予約はすべて偽名を使っていたし、電話番号も適当なものを登録した。そもそも紬は携帯を持ってきていないから位置情報を調べることもできない。
「あ」
「どうしたの?」
「ごめん。僕のせいだ」
「詩摘くん?」
準備の日にかかってきた電話、僕は感情に任せて「いまから紬と自殺しに行く」と言ってしまった。一緒にいるとわかっていれば、僕の位置情報を追跡して紬を探すことができる。そのことを説明すると、紬は困ったように笑った。
「なんで先生が詩摘くんに?」
「知られてないけど、親戚なんだ」
「えーそうだったんだ。それは知らなかったなあ」
「とにかく、本当、申し訳ない。これからどうすればいいか考えるから」
「焦っても仕方がないよ。でも、大阪は危ないかも。早いけど、次の目的地に向かっちゃおうか」
紬は僕の背を叩くと、「気にすんな」、弾むような声で言った。見慣れた明るさに当てられ、腹の底にむず痒い感情が募っていく。彼女のリストにこれ以上大阪でする項目が含まれていなかったことがせめてもの救いだった。
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