6-5「皺の寄ったシーツ」
鼻腔の奥のほうに、線香の匂いが籠もっている。周囲を見回してみても、そこには土産屋や小物雑貨店が並んでいるだけだった。
「詩摘くんは修学旅行、行った?」
「うん。紬は?」
「行ったよ。そのあと『お前のせいで出費がこんなにあった』って殴られたけど」
「……うわ、反応に困るなあ。なんて返そう」
「声、出てるよ」
紬の明るい表情を見たとき、出会ったばかりのときみたいだと思った。わざと反応に困りそうなことを口にして、僕の反応を窺っている。紬は変わらない。好きなことをして、最後に自殺する。やはり、変わってしまったのは僕のほうだった。変化に上手く順応できていなかった。
「懐かしいなあ」
「うーん」
修学旅行でここに来たことはたしかに覚えているが、当時はさほど楽しくなかったような記憶がある。どの味の生八つ橋を買うかみたいなことに心を躍らせている同級生を、内心で馬鹿にしていた。
どうでもいいことで一喜一憂するには、誰かを心の内側で大切するための育て方をされることが重要だ。僕には縁のない話だし、必要ないと思っていた。でも、今ならわかる。帰ったあとのことに心を躍らせる未来があったらどれほど幸せだっただろう。
「買っていって、あとで食べようよ」
「うん、そうしよう」
「我ながら名案だなあ」
時間をかけて自分たちへのお土産を選び、また坂を登っていく。頂上に近い場所へ来て、ようやく入口の門が視界いっぱいに映るようになった。
「写真、撮ろ?」
「ああ、そうだね」
ポケットから携帯を取りだし、一歩下がってカメラを構える。角度を調整しようとしたところ、「一緒に!」、駄々をこねるみたいに紬が言った。仕方なく隣に並び、カメラを内向きに設定する。どういう仕組みかはわからないが、昨夜は風呂に入らなかったはずなのに、紬からは花のような匂いがした。画面のなかの紬は、想像していたよりずっと近い距離にいた。
「自殺する身として、一回はあの舞台を見ときたいな」
「首を吊るんじゃないの?」
「そうだけどさあ」
清水寺の本堂は、正門から歩いて間もない場所にあった。写真やパンフレットでよく見かける「清水の舞台」は、この本堂にある。観光客をかき分けて進んでいくと、人混みの先には写真で見るよりずっと迫力のある光景が広がっていた。
遠くに連なる山の影が、空よりもずっと深い色をしていた。舞台の下には葉を失った木と、深緑の葉を付けたものが疎らに広がっている。そこら中から人の気配がするのに、空気が澄んでいるような気がした。
「詩摘くん、飛び降りてみたら?」
「いやだなあ、飛び降り自殺」
「この高さじゃ死ねないらしいね」
「なおさらいやだなあ……」
死ぬだけでも怖いのに、飛び降り自殺など僕にはとてもできそうになかった。遂行こそされなかったものの、飛び降り自殺をしようと決心した紬にはどう頑張っても敵わない。正面の景色から、滑らせるように隣へ視線を送る。紬はぼうっと景色を眺めたままだったから、僕はまた正面へ視線を戻すことにした。
青い空には丸くてちいさな雲がいくつも浮かんでいて、太陽を隠したり、通り過ぎたりを繰り返している。鬱蒼と生い茂った木々が風に揺られ、葉のなくなった枝が踊っているようだった。もしここから飛び降りたとしても、地面に到達する前にあの枝が刺さってしまうと思う。
綺麗な光景に感情を揺さぶられたときは、自分が生きていることと深く向き合わされているような気分になる。次第に、心の温度が変化しなくなっていく。今それを極端に感じているのは、もしかしたら死に近い状況を充分に理解しているからなのかもしれない。
舞台からの景色を堪能したあと、清水寺周辺の観光地を巡り、それから着物を返却しに行った。夕食を済ませてチェックインをするころには午後十時を回っているから、楽しい時間はあっという間だということを再認識させられる。
部屋に入って早速床に倒れ込んだ紬を起こし、荷物を準備させて浴場へ連れて行くなどしながら自分も眠るための準備を進めた。昨夜の夜行バスでは二人ともなかなか寝付けなかったし、これからのことを考えると充分に睡眠時間を確保しておきたい。入浴と翌日の準備を済ませたあとは、すぐに消灯した。
部屋が暗くなってからも、携帯の画面をぼうっと眺めていた。表示が零時ぴったりに変化し、日付が加算される。十二月二十六日。明日も明後日も、まだこの旅行は続く。残りの時間を憂鬱に思うのはもっと先でいい。
隣の布団からはすでに布の擦れる音がなくなっていた。目を閉じて、紬のいない世界を想像する。心臓が、直接握られたみたいに痛んでいる。暖房器具による乾燥が目に沁みて、涙が出そうだった。
「……詩摘くん」
暗闇の向こう側から声がした。寝返りを打って彼女に背を向け、「ん」、返事をする。
「一緒に、寝ない?」
「……うん」
紬の声を聞いて、身体に溜まっていた疲れや痛みみたいなものがすうっと消えてしまったような気がした。背中のほうで、布団が上下するのを感じる。後ろへ投げだしていた手に、ぴたりと熱がくっついた。
また寝返りを打ち、今度は天井を正面に据える。隣から流れ込んでくる熱が自分の体温と混ざり合い、意識の端っこにあった重さがゆっくりと色を薄くしていった。身体が重力から解放されたころ、唐突に、今なら何でもできると思った。天井に、黒くなった照明の、輪郭がぼんやりと浮かんでいた。
「……紬」
「……ん」
紬を思いっきり抱き寄せたとき、心の重さが完全に溶けてしまったのを感じた。重さから一時的に距離を置くのに手っ取り早いのは、愛情に心を浸からせることなのではないかと思う。顔が近づいて、紬がちいさく目を閉じた。唇が触れて、流動的な熱がふんわりと注ぎ込まれてくる。頭がおかしくなりそうだった。身体から輪郭が失われていた。熱が液状化していた。
生きることは総じて苦しいと思う。死ぬと決めなければ感じることのなかった愛おしさ、そのものが愛おしかった。僕は紬のことが本当に好きだった。紬は温かくて、柔らかかった。真っ白なシーツに皺が刻まれていた。
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