6-4「思考実験の失敗」

 僕は、日本古来のものが纏う雰囲気が好きだった。神聖な空気が身体を包んで、迷いや憂鬱だけを抜きとってくれるような気がする。もし紬にも同じように作用してくれるのだとしたら、いつか、希死念慮とか痛みとか、そういう不要なものだけを消してくれるかもしれない。


 いや、むしろ、僕がそうしてやりたかった。彼女を身体に取り込んで、痛みだけを消化し、吐きだしてやりたかった。


「あ、わかれ道」


 顔を上げると、たしかに道がわかれていた。どうやら長短ふたつのルートがあるようだった。長いほうを歩いていたら着付けの予約に間に合わないので、そのまま短いルートを通って駅へ戻ることにした。


 千本鳥居を抜けた僕たちは、電車とバスを乗り継いで清水寺へ向かった。予約していた着物のレンタル店は、次の目的地からほど近い場所にある。バスに揺られながら紬と話をしていたらすぐに停留所が見えてきた。


 ICカードで運賃を支払い、ステップを降る。続けて下車した紬の手を取り、反対の手で地図アプリを起動した。店の住所を検索し、地図の示す方向へ足を進めていく。


「寒そうだな、着物だと」

「上着、貸してくれると思うよ」


 レンタル着物店は停留所から歩いて五分のところにあった。自動ドアをくぐり、受付にいた店員に予約していた旨を伝える。空調の暖かい空気と穏やかなBGMが、冷え切った身体をすっぽり包み込んでいた。偽名を名乗ったあと、僕たちはすぐに店の奥へ案内された。


 男性は一階、女性は二階に分かれているようだった。「ばいばい」、明るい紬の声に、軽く手を振って返事をする。彼女を見送ったあと、スタッフの年配女性に続いて着付けコーナーへ向かった。


「あの子、彼女さん?」


 インナーの上に肌着のようなものを巻き付けながら、女性が朗らかな声で訊いてきた。「あ、はい」、なんとなく肯定したあとに、紬が自分の恋人になったことを思いだす。


「店入ってきたとき、嬉しそうな顔しとったよ。予約、全然取れんかったでしょう?」

「はい。何軒か回ってようやく」


 口ぶりからして、僕が昨日の夜に予約を取ったことを知っているのかもしれない。年末が近いということもあってか、なかなか予約を取ることができなかった。紬は「無理だったら仕方ないよ」と笑っていたが、せめて、あのリストにある項目だけはすべて叶えてあげたかった。結局、粘りに粘ってようやく空いている店を見つけることに成功した。


「そう。本当、綺麗な子やったねえ。大切にしてあげてな」


 はい、できました。軽く腰を叩かれてから自分の衣装が完成したことに気づき、正面の鏡へ視線を向ける。黒い袴に濃藍色の帯。なかなか様になっているような気がする。紬はまだ着付けの途中だったようなので、僕は受付前の椅子に腰掛けて彼女の帰りを待つことにした。


 大切にする。紬のためにできることは全部こなしていくつもりだし、彼女がしたいことは全部させてあげるつもりだ。「大切にする」という言葉は結構、曖昧だと思う。だから、僕が彼女を何よりも大切に思っていることが伝わるよう、努力しなければならない。


 カーペットの床には、窓から差し込んだ日光が明るく映しだされている。脚を伸ばしてみると、その部分だけ、夏のような暖かさをしていた。


 ぼうっと眺めていた視線の先、上の階が賑やかになり、なんとなく紬の着付けが終わったのだと思った。階段のほうを眺めながら、彼女が降りてくるのをじっと待つ。足袋と着物の裾が順番に見えて、それから真っ白な着物を纏った紬がゆっくりと姿を現した。


 白地に藤の花が描かれた、綺麗な着物だった。頬の青い部分が、水たまりみたいにぼんやりと浮かんでいる。僕はその瞬間、たしかに見惚れていた。藍色の浴衣も美しかったが、やはり紬には明るい色が似合っている。


「詩摘くん、似合ってるね」

「あ、ありがとう」


 紬は僕の目の前にやってくると、その場でくるりと一回転して、それから「私はどう?」と得意げに笑った。その拍子に裾が浮き上がり、脚の青い痣があらわになる。つい、目を逸らしてしまった。


「綺麗」

「へへっ。ありがとう」


 レジで精算を行い、手を握ったまま店の外へ足を踏みだす。布の隙間から、鋭い冷気が入り込んできていた。紬はいつの間に取りだしたのか、着物の上から羽織を被っていた。


 地図アプリで検索してみると、清水寺までは歩いて二十分程度だった。道中には商店街もあるし、歩いて向かっても退屈はしないはずだ。


 地面の白い塗装に日光が反射し、視界が外側から押し固められたようになっている。景観に配慮しているのか、道の端にある木製の入れ物には、「消火栓」の見慣れたフォントが貼り付けられていた。


 細かな非日常がそこら中に転がっている。それを見るたびに心が踊ったり、間もなく死ぬということに悲しくなったりしていた。最後の旅を楽しむべきなのに、余計な思考が感情の邪魔をしている。


「ほら、ぼーっとしてないで行くよ」

「ああ、うん」

「考えごと?」

「いや、なんでもない」


 紬の首が傾いた拍子に、視界に占める彼女の面積がぐっと広くなった。丸っこい目から、急いで視線を逸らす。足を踏みだしたとき、からん、下駄のアスファルトを打つ音がした。


 清水坂は冬休みに相応しい混み具合をしていた。道の端から端まで、浮かれた表情の人たちで埋め尽くされている。ずっと遠く、坂の上に、寺の入口を示す門がちいさく見えた。


「普通ならここでお土産、選ぶのにね。悲しいなあ」


 紬が、あっけからんとした表情でそう言った。言葉と表情の齟齬に、つい口角が上がってしまっている。先ほどまで思い悩んでいた自分が馬鹿らしくなってきた。


 彼女にとっては生きることも死ぬことも関係ない。わかりきっていることだった。今の苦しさから解放されることだけが紬にとっての救いだった。そういう割り切り方をできることが、僕の憧れた紬の強さだったのかもしれない。

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