6-3「非現実のなかの現実」

「寒いね」


 バスを降りて京都の地を踏んだとき、周囲の喧騒の隙間に紬の囁くような声が聞こえた。京都での第一声がそれかよ、そう言ってやろうとしたのに、続いて下車した僕が漏らしてしまった言葉も「寒っ」だったから、もしかしたら僕たちはかなり似通った人間なのだと思う。


「いい匂い。朝ご飯、パン屋さんに行こうよ」


 紬の言うとおり、冬の乾いた空気に混じってパンの焼ける匂いが漂ってきていた。それに引きずられて、車酔いや寝不足でぼんやりとしていた胃がいつの間にか隙間を空けている。朝食に冷凍食品以外のものを食べるのは久しぶりだ。


「いいね。でもまずは預けに行こう。スーツケース」

「うん、そうだね」


 ふわり、コートの下で、白いワンピースが大きく波を打った。さらにその下、彼女の細い脚には、青と黄色でぐちゃぐちゃになった大きな痣が浮かんでいる。あれは首を吊るまでに治るのだろうか。


 紬が暴力を受けた証拠になるのだとしたら、あの痣はきっと残っていたほうがいい。検死の際に「親からの虐待で自殺した」と判断されなければ、彼女を苦しめた母親への制裁はなくなってしまう。それでも僕は、彼女に、できるだけ綺麗な状態で死んでほしかった。


「詩摘くん、早く早くっ」

「うん」


 弾んだような声に引っ張られて、わずかに歩くスピードが上がっている。暗いことを考えていても仕方がない。それに、彼女の死因が決まるのは僕たちが死んだあとなのだから、そのときすでに死体になっている僕たちには全く関係のない話だった。


「詩摘くん、そこだよ。お届けサービス」

「あ、ほんとだ」


 関西には、駅から旅館へ荷物を送ってくれるという、便利なサービスがあるらしい。カウンターで手続きを終えると、僕たちはすぐに大荷物から解放された。書類の氏名欄には、念のため、偽名を記入しておいた。


 荷物を預けたあと、僕たちは駅施設内の最初に見つけたパン屋で朝食を購入した。イートインスペースで食事を摂ろうにも、長時間座りっぱなしだったせいで、お尻が押し込まれるみたいに痛んでいる。話し合いの結果、目的地へ向かいながらパンを食べることにした。


「美味しい」

「うん」


 ぼうっと見慣れない街を眺めながら、パンを袋から取りだし、口に運ぶ。しっとりとした生地に、優しく広がる餡の甘み。もっと早くパンの魅力に気づいていたら、きっと冷凍食品コーナーには立ち寄らなくなっていたはずだ。脚の芯まで染みていた寒さは、駅を離れるにつれて少しずつ暖かみを取り戻していった。


『京都に行って、有名な観光地を回ってみる』、その項目のためにまず訪れたのは、千本鳥居で有名な伏見稲荷大社だった。


 間もなく年が明けるせいか、それとも冬休みに入ってすぐだからなのか、伏見稲荷大社はたいへん多くの観光客で賑わっていた。入口付近の屋台から醤油の焦げる香ばしい匂いが漂ってきて、朝食を摂ったばかりにもかかわらず、また腹が減っていくような錯覚に陥っている。列に並んでいては日が暮れてしまいそうなので、僕たちは仕方なく先を目指すことにした。


「お稲荷さんって、千三百年以上の歴史があるんだよ」


 旅行のしおりに目を落としながら紬が得意げな表情で言った。出発前にふたりで作ったしおりには、今回訪れる神社の情報も載せている。伏見稲荷大社の項目は、昨日、紬が調べていた。


 彼女の楽しそうな様子につられて、「そうなんだ」、ついうわずった声で返事をしている。観光地のことを知っていればそれだけ違った見方ができるだろうし、そのぶん、新鮮さや楽しみを味わうことができる。


「ふふ。楽しいな、旅行」

「早いって。まだ始まったばっかりじゃん」


 紬から視線を逸らした先で、楽しそうに笑う男女二人組を見た。脳の底から分厚い熱の塊が降下し、胃のなかで膨張したようになっている。僕たちも、出会い方を間違いなければ、こういった普通の幸せを手にすることができたのだろうか。彼らから目を逸らすころには、周囲の楽しそうな声がぴったりと鼓膜に貼り付いていた。


 生きてるってなんだっけと思う。紬と一緒に死ぬことを誓ったはずなのに、僕はまだ生きて幸せになる未来を思い描いてしまっていた。死ぬと決めてから初めて獲得できる幸せがあると心のなかでは理解できているのに、感情というよりもっと本能に近い部分がそれを否定しようとしている。すれ違う人たちの笑顔を見るたび、足元がぐっと沈み込んでいく。


 いままで紬と掴んできた幸せは、何かを犠牲にしなければ得られないものばかりだった。こうして命を絶つ選択が果たして正しいものなのか、またわからなくなってしまった。明るい声が鼓膜に貼り付いている。息を吐きだす。紬の手を強く握る。


「詩摘くん。時間、まだ大丈夫だよね?」

「なんの?」

「着付け体験の、予約」

「うん、まだ余裕あるよ。ゆっくり回ってもお釣りがくるくらい」


 非現実的だと思った。こうして紬と手を繋いでいること、そして自分が命を絶とうとしていること、すべてに夢のような曖昧さがくっついていた。あれだけ考えて答えを出したはずなのに、現実のなかに非現実を見てしまっている。


 たとえば同じ場所をぐるぐる回り続けるのと、紬と一緒に自殺するのはどちらがいいのだろう。ふたりでどこかへ逃げるなんて、できるような環境じゃない。


「千本鳥居って、意外と新しいんだね」

「うん、僕も同じこと考えてた」


 立ち並ぶ鳥居のひとつめを越えたとき、突然、空間が属性ごと変化したような気がした。周囲の観光客だけでなく、風や木々までもが静かで神聖な空気に当てられている。鳥居の隙間から太陽の光が漏れて、地面に縞模様の影を作っていた。顔を上げて、道の先をじっと見つめてみる。歩いても歩いても、どこへもたどり着けないような気がした。

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