8-2「メリーバッドエンドの加護」

 希死念慮というのは、中身の見えないゴミ箱のようなことを言うのだと思う。替えても替えても誰かの意思で中身は満たされ、気づけばまた替えなくてはならないところまできている。いっぱいになるまで、替えなければならないことに気づくことができない。


「……好きな人と一緒に死ぬんでしょ」

「……え?」

「置いていかないでよ。なんで、僕を」


 言葉の続きは出てこなかった。自分が何か苦行をすることで、自分のせいで死んだ両親が報われるような気がしていた。それでも、いくら時間を使っても、苦しみは呼吸を続ける理由になってくれなかった。


「……詩摘くん。ごめんね。やっぱり詩摘くんには生きててほしいよ」


 紬がロープを掴んだ拍子に、枯葉と背丈の低い雑草で不安定そうな椅子がわずかに角度を変えた。その椅子から僕の足元にかけて、光の道が敷かれている。


「……でも僕は、紬が好きで、紬はそれを受け入れてくれて、だから紬がいなかったら僕は、この先どうやって生きていけばいいのかわかんないよ」


 自分の声が湿っていくのがわかる。心の内側に紬を入れてしまったことはもしかしたら失敗だったのかもしれない。でも、だからといって、未来に紬を好きになる可能性があるのだとしたら、僕はあのとき物理のノートを取りに戻るしかなかった。例えそれが、紬の狙いどおりだったとしても。


「紬に出会えて、もしかしたら自分は生きていてもいいかもしれないって思えたのに、紬が死んだら……」


 声、震えた空気が直接脳を揺さぶったようになっていて、紬の困惑したような笑顔を見たとき、それが自分の吐きだした言葉だったと気づいた。


 目に映るものの輪郭が端のほうからほどけていく。目頭に熱が集まっていく。ひとりで過ごすことが怖くなってしまっていた。生きていることの悲しみや憂鬱がそのまま、心の内側と外側を隔てる壁だった。


「……紬は、自殺を止めるのは自分勝手って言ってたけど、でも、自殺する側も、勝手なんじゃないかな」


 視界が中央から輪郭を失って、そこにはついに空の青と植物のくすんだ色が映るのみになってしまった。好都合だった。紬がどんな顔をしているのか、怖くて見ることができなかった。


「……ごめん。でも、どうしても僕を残すつもりなら、一緒に生きようよ」


 嗚咽が喉の内側に食い込んで、呼吸することもままならなかった。悪いのは明らかに僕のほうだった。苦しんだ側に分があるはずなのに、自分の都合を押し付けて「生きろ」なんて、初めて自殺を止めたあの日から何も変わっていなかった。


 色が滲むだけになった視界のなか、紬が椅子から降りてくるのがわかった。背中、身体を包み込むように回った腕に、強い力で抱きしめられる。「ごめんね」、震えた声がした。どう考えてもそれを言わなければならないのは僕のほうだった。


 苦しみは乗り越えるためになど存在していなかった。不平等に、言葉のとおり人を苦しめるためでしかなかった。


「でも、もしここで死ななかったとしても、私、どう生きていいのかわかんないよ」


 どうすればふたりで生きていけるのか、ずっと考えていた。側にいれば紬は幸せと言ってくれるかもしれないけど、それだけで母親から受けた暴力や暴言を上手く消化できるわけではなかった。苦しまずに済むわけではなかった。


「……この先自殺しちゃダメなんて言わない。でも、ふたりとも、お互いにしか生きる意味を見いだせないなら、もう少しだけ、一緒に生きてみようよ」


 何度反芻してみても、自分が放った言葉は無責任だった。紬を殺すことになった彼女の両親への復讐を考えてみたが、そうすることで紬が悲しみを上手く飲み込めるとはどうしても思えなかった。手を尽くしても救えない命がたしかに存在していた。


「……私、勝手だったのかな」


 鼓膜の奥に、紬の声がぼうっと浮かんでいる。そんなことはないと言ってやりたかった。紬はたくさん苦しんでそうするしか道がなかったから自殺することを選んだのに、僕がその逃げ道を塞いだことで、彼女はまた苦しんで生きるしかなくなってしまっていた。それでも言葉を撤回したら今すぐにでも紬がいなくなってしまいそうで、僕は唇を噛んでその言葉をせき止めることしかできなかった。


「最初は難しいかもしれないけど、生きて幸せになろうよ。いつか二人で住んでさ、うまくいかないことばっかかもしれないけど、でも、休みの日にはどこか遊びに行ってさ、本当に、そういう、普通の生活でいいから」


 身体が離れて交わった視線の先、紬の消え入りそうな笑顔に光の粒が乗っかっている。その表情につられて零してしまった涙の、頬を伝っていった部分に春のような柔らかい風が触れて、身体が内側から冷却されていくような感覚になっていた。薄い色をしたそのひどく熱そうな唇から、「私」、脳の底に貼り付くような声がした。


「私、詩摘くんの顔を見たら死ぬのが怖くなるから早く死のうと思ったのに、……そんなこと言われたら死にたくないって、思っちゃうよ」


 ふたりぶんの嗚咽が葉の擦れる音と同期し、そのとき僕たちはたしかに自然と一体化していた。景色に混ざり、意識が融解し、自分と外界の境界線が曖昧になっていく。この先のことなどやはり何も思い浮かばなかった。問題は山積みだった。生きていてくれればそれでいいなんて、そんなことを口にできるのは自殺志願者の苦しみを知らない人間だけだった。


 憂鬱な気持ちをなくすには、絡まった糸をひとつずつ解く作業が必要になる。この先ふたりで生きていくにしても、紬が完全に前を向くようになるには途方もない時間が必要だった。


 一秒先で飽き続けるような人生がいつの間にか輝いていた。彼女に出会って、愛情に上手く心を浸らせる方法を僕はようやく知ることができた。誰かを好きになるということが、人生において、これほど大きな意味を持っているとは思っていなかった。


 風が木を揺らしていた。角度を変えた葉がちょうどいい塩梅に日光を反射していて、視界に映るすべてに目がくらんだようになる。もう一度、僕は紬を思いっきり抱きしめた。


 時間の経過は気にならなかった。何時間でも紬を抱きしめていたかった。僕たちは声を上げて泣いていた。涙が涸れても頬が冷たく乾燥していても、僕たちはずっと同じ体勢のままだった。次に紬が声を発したのは、また太陽の側に大きな雲が流れてきたときだった。


「……私、死にたい気持ちがなくなることは、きっとないと思う。幸せに生きてたとしても、いつか、また死にたいって思っちゃうよ。もしかしたら詩摘くんの知らないところで自殺するかもしれない。だから『自殺しない』じゃなくて、『先延ばし』だったら」


 生きることは彼女を苦しめることと同義なはずなのに、僕は紬が生きる意思を見せてくれたことに心を躍らせているから情けなかった。「ごめんね」、僕が謝ると、「まだノート項目も残ってるしね」、また涙で頬を濡らして、花が咲くような笑顔で紬が言った。


 紬の手を取って廃墟へ戻り、携帯の電源を入れ、それから龍介に連絡した。紬以外の人の声を、久しぶりに聞いたような気がした。


「空、綺麗だな」


 電話を終えたころ、紬がぽつりと呟いた。景色が洗練されて見えていたのは死が近づいているからだと思っていた。紬の言うとおり、ここから見える空も、昨日までの景色と同じくらい綺麗だった。


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