第9章『春風に、融ける。』

9-1「明日の予定」

 春休みは暖かくて、人肌のような風が吹いている。開放された窓からは絶え間なくそういった風が吹き続けていて、ベッドに腰掛けて漫画を眺めていた僕は、なんとなく感傷的な気分になった。


「おい詩摘。なんかないの? 腹減ったんだけど」

「ないよ」

「あ、お前、冷食あるじゃん」

「勝手に冷蔵庫、探んないでくれない? あとそれ僕の食糧だから」


 キッチンのほうから、冷蔵庫を開閉する音が聞こえてくる。今度は電子レンジの唸る音がし始めたから、龍介はきっと僕の警告を無視して貴重な食糧に手を付けたのだろう。小言を口にする気も起きず、僕はそのままベッドに背中を付けた。


「あとでうまいもん奢ってやるからさ」

「別にいい。今日はこのあと紬に会うから」

「マジか」


 親戚とする外食ほど面倒なことはない。それに、この日は実際、紬からカフェに行こうと誘われていた。恋人よりも叔父を優先する高校生男子が一体どこにいるのだろう。こればかりは仕方がないことだ。


「そうかあ。もうすぐ四ヶ月経つのか」

「何が」

「ふたりが帰ってきてから」

「なに、急に」


 漫画を上に掲げて読んでいたため、腕に疲労が溜まり始めていた。仰向けに寝そべったまま、視線だけをキッチンに向ける。引き戸は龍介がいる側に追いやられているため、彼の姿を視認することは叶わない。


 あの日、廃墟から龍介に電話を掛けた数十分後、僕と紬は警察官に取り囲まれ、地元の警察署まで連行された。日常だった景色を目にしたとき、安心より、この先訪れる問題の重さを強く実感した。


 警察署には龍介と児童相談所の職員、それから紬の叔母の姿があった。母親も来ているようだったが、僕たちがその姿を目にすることはなかった。龍介の働きかけによって紬へ振るわれていた暴力のことが明るみになり、話し合いの結果、引き渡し先が叔母になったらしい。


 紬は叔母の家ではなく、彼女の金銭的な援助により学校の近くで一人暮らしをすることに決まった。学校での環境をできるだけ変えたくないという彼女の発言に配慮してのことだった。


 彼女の母親、それから傍観を決め込んでいた父親にもなにか罪状が言い渡されたようだった。逮捕された母親が最終的にどうなったのか、数ヶ月が経っても僕に詳しい情報が伝わってくることはなかった。


「俺はたぶん、間違っていたんだと思う」


 龍介の声を聞いて、漫画の紙面に乗っていた意識がぶわりと浮き上がる。


「何が」

「自殺すること自体は、不幸なことじゃないんだよな。それは結果でしかない。不幸なのは、そこに至るまでの環境なんだって」


 キッチンから顔を出した龍介は、今まで見たことがないほど真剣な表情をしていた。


 彼が口にしたことは、僕が紬と過ごすなかでようやく手にした答えでもあった。自殺志願者を救う明確な手立てはない。死なせてあげること、それが最も簡単に彼らを救う手段だった。


「……お前らが発つ前かな。詩摘に言われて初めて気づいたよ。これまで闇雲に助けようとして、自分の理想ばっかりで行動して……全然わかってやれなかった。情けないよな」

「別に。僕だって紬と出会うまではわかんなかったし」


 自殺志願者とそうでない人はわかりあえない。僕も最初、紬の気持ちをわかってやれなかった。彼女にとって死なないことは救いにならない。そんなことに気づくまで、ずいぶん時間を使ってしまった。


「お前の両親……、兄さんたちの力になれなかったこと、ずっと後悔してたんだ。どうすればいいかわかんないまま、ふたりは知らないうちに死んでしまった。だから、瀬川のことを聞いたとき、絶対に助けなきゃって思ったんだ」


 読みかけの漫画をベッドに伏せ、上体を起こす。一度寝転んだあとに身体が重く感じるのはなぜなのだろう。龍介はできあがったパスタを持って現われると、ローテーブルの前に腰を下ろした。


「……僕も同じだよ、それは」

「そうか」


 僕が紬を充分に救ってやれなかったことを後悔するみたいに、龍介もそうやって苦しんで生きてきた。それからお父さんとお母さんも、紬と同じように、死ぬことにしか希望を見いだせなかったのかもしれなかった。


「いろいろしてくれて感謝してるよ。一応、お礼は言っとく」

「一応ってなんだよ」


 僕たちの逃避行の間、龍介は警察と連携し、紬が帰ってきた際の環境作りをしてくれていたらしい。失踪事件と紬の家庭環境の調査、そして紬の叔母との話し合い。彼の働きがなければ、紬は今ごろ母親の元で変わらない環境を過ごしていただろう。


「前に『何もできないくせに』なんて言ったことも謝る」

「いや、事実だよ。俺らだけの力じゃ足りない。だから詩摘の力も必要だ」


 春の暖かい風に乗って、カルボナーラの濃厚な匂いが漂ってくる。窓の外はひどく晴れ渡っていた。暑苦しい夏が来るのも時間の問題だ。


「……何もできないよ、僕は」


 あれだけ悩んで、僕は紬に死なせてあげる以外の結末を用意してやることができなかった。僕にできることはもう何もない。しかし、龍介はフォークの先端を僕に向けると、「違うよ」、力強い声で言った。声とカルボナーラとの落差に、頭がクラクラする。


「お前だけの力じゃダメだけど、俺ら大人だけの力でもダメなんだよ。瀬川を助けるためには拠り所が必要だ。環境を変えるだけじゃ、瀬川が生きたいって思える世界にならない。詩摘しかあの子の希望になれないんだよ」

「……そう、かな」


 僕はあのとき、未来を何も見据えられていなかった。でも、ふたりで生きるという選択を持ちかけたのは僕のほうだ。紬を苦しめ続けてしまうことの償いをしなければならなかった。彼女を幸せにすることがあのとき僕に与えられた、生きる意味というよりもっと力強い、使命、のようなものだった。


 これまでのことを忘れてずっと幸せに、なんて都合よくいかないのはわかっている。いつか、「自殺を止めた側は相手に生きたいと思わせる責任がある」と紬が言っていた。そのとおりだった。いくら難しくても希望がなかったとしても、僕には可能なことを全力でこなすしか残されていなかった。


「……明日の夜なら、空いてるけど」

「何が?」

「いや、別に。奢られてやってもいいかなって。ごはん」


 そう言葉を追加して、龍介が満面の笑みを浮かべたとき、失敗したなと思った。でも、彼からそういう表情を向けられるのも、意外と悪くない。

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