9-2「101個目の項目」

「ねえ、このあとどうしようか」


 どうしようか、とは。僕がそう訊き返すも、嬉しそうな顔で買ったばかりのノートにペンを滑らせている紬にその声は届いていないようだった。返答を受け取るつもりのない質問をしないでほしい。


 紬がペン先でノートを叩くたび、制服のリボンがわずかに揺れる。湯気が立ったままのコーヒーを啜りながら、僕はぼうっとノートの紙面を眺めていた。春らしい気温になってきたとはいえ、アイスコーヒーを注文するにはまだ寒すぎる。それなのに長時間外を歩いていると汗が滲んでくるから、三月末というのは本当に中途半端な季節だと思う。


「明日から三年生かあ」

「よかったね。同じクラスになれて」

「ふふっ。そうだね」


 がたん。机が揺れた拍子にコーヒーの表面が波を打ち、シーリングの羽が歪んだみたいになる。「あとは何を書こうかなあ」、そう言いながらペンを弄ぶ紬を見て、僕はやっぱり感傷的な気分になった。


「……達成できなかった項目から書けば?」

「いいねー。あとは『高いワインを飲む』とか?」

「別に入れてもいいと思うけど、二十歳になってからにしなよ。ようやく警察とか弁護士とかから解放されたんだから」


 くるり。紬の指で回転したシャープペンシルが、そのままちいさな手のひらにぎゅっと握られる。新品の生成り色のノート、物理、三年二組、瀬川紬。そのノートには、彼女のしたいことがたくさん綴られている。


「うーん、じゃあ、それまで生きてたらね。……あ、そういえば、自殺するまでにしたい100のこと……。一〇〇個じゃなくなっちゃったね」

「まあ、いいんじゃない?」


 たしかに一〇〇個では収まりきらなくなっているが、僕は、題名を変えようなどという愚かな提案をするつもりはなかった。希死念慮に終止符など打ててはいない。項目がすべて達成されたという既成事実を作ってしまえば、彼女はまた自殺に向かっていってしまう。そんな僕の思考を踏み潰すみたいに、「あ、番外編って付けよう」、紬が弾んだ声で言った。


「ねえ、今日。泊まりに行ってもいい?」

「え、いいけど」

「また嫌な夢、見ちゃってさ」

「そっか。来なよ」

「お母さんに殴られる夢ね」

「わかってるって。それ言われて僕が困ると思わないの?」


 顔を上げた先で、紬が得意げな笑みを浮かべている。紬はまだ、家族との過去に心を苦しめることがあるようだった。まだ、充分な時間は経っていない。彼女に苦しみを連想させるものはそこら中に転がっている。紬の傷は永遠に癒えることはないかもしれない。


 龍介には「帰ってきてくれてよかった」と言われたが、僕はそう思わない。紬との逃避行が迎えた結末に対して、未だに胸を張って正解だったと言うことができずにいた。


 この先に生まれる紬の苦しみは僕の責任でもある。だからもし紬が苦しんでいれば、僕は何よりも彼女を優先することにしていた。学校を休むことも悪天候のなか会いにいくことも、彼女のためだったら何も問題はなかった。


「……前に行った水族館はどう? リニューアルされたらしいよ」

「んー? 何が?」

「このあとどうしようか、って言ってたじゃん」

「あー。いいね。じゃあ、詩摘くんが行きたいって言うからそうしよう」


 紬の笑い声に当てられて、「うん、そうだね」、いつの間にか口角が上がってしまっている。紬に続いて立ち上がったとき、ふと、今日が本来の自殺予定日だったことを思いだした。


 生きるということはたしかに苦しいけど、同時に感じられる幸せをより強く掴んでいられたら、もうすこしだけ上手に生きていけるような気がしていた。紬が死にたいと願うその日が来たら、僕は彼女と一緒に自殺する。運命なんて不確定なものではなく、義務としてそれは僕の生に付随していた。


 僕は紬の生きる指標になってあげたかった。そのひどく熱そうな笑顔が滲むその表情を幸せの色だけで染めてあげたかった。僕が生きてもいいと思えたように、紬にも生きることを苦しいと思ってほしくなかった。


 死ぬまでにしたい100のこと。番外編、最初の項目、『前を向いて生きてみる』。新しく追加された項目を達成するため、僕たちはカフェをあとにした。

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自殺するまでにしたい100のこと 新代 ゆう(にいしろ ゆう) @hos_momo_re

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