予定調和の物語が嫌い、という年頃、私にもありました。
というか今も、若干その傾向があります。
ハッピーエンド、大団円、めでたしめでたし――作者の脳内だけで組み上げられた「よくできた幸せなお話」。世に溢れるそれらが、集まると一種の「型」となり、重圧として自分を締め付けてくる……そんな風に感じていた年代が、確かにありました。特に中高生頃。
とはいえ本作において、それは必ずしも本題ではないように思われます。
かつて感じていたそれらの感覚は、いつしか過去になっていく。けれど、過去になりきらないものもある。
本作が主眼としているのは、むしろそちらであるように自分は感じました。
世に溢れる「型」に順応したり、適合したり、単に忘却したり……そうしていつしか忘れていく生き辛さ、息苦しさ。けれど、すっかり忘れ去れるものでもない。
そういったものへの郷愁めいた何かを、感じました。
名状しがたい情感を含みつつ、細やかに配された事物の数々も、鮮やかに情景を彩ってくれています。
繊細な感情の揺れを、存分に堪能できる作品だと思います。
思春期のあれこれを通りすぎて変わっていく先輩と、それを留めたい後輩。殺したいのは「時間の流れ」。移ろい変わっていくものを、その息の根を止めてでも留めたい、そんな気持ちの表れなのかなと思いました。
会話の間の取り方、地の文で表現される言葉選びと想像力の豊かな「静寂」の描写がとても秀逸で、全5話あっという間に読ませて頂きました。
個人的にはこの後輩が言う「殺す」は三島由紀夫の最初期の散文『中世に於ける一殺人者の遺せる哲学的日記の抜萃』における「殺人」を彷彿とさせるものだと思いました。
三島が10代の前半にこれを書いたように多感な思春期だからこそ、強烈な愛着を表現する言葉が、死に近づいていく。
変わっていくこと許せないから、そのときのまま、時間を「殺したい」。本当は、そこで「死んでいたい」のではないかと思うのです。
満開の桜も、青空と入道雲も、
鮮やかな紅葉も、凛とした雪景色も、
この世を彩る全てが、色を失い。
どうでも良いと思う瞬間がありますか?
それら全てを、
殺したいと思う事がありますか?
この世の中が、
どうしようもなくつまらなく思えて、
馬鹿らしく思えて、白々しく思える。
綺麗事を並べる奴らに反吐が出て、
理想論をのたまう奴に嫌気がさす。
でもそれはきっと、
意気地のない自分への苛立ちだ。
絶望すらできず、
悲しみすら得ることの出来ない、
踏み出せない自分への苛立ちだ。
虚無感だ。
僕が本当に殺したいのはなんなのか?
新代ももさんの『小説家を殺したい』を読んで、僕はそんなふうに思いました。
あなたも読んで、感じてみてほしい。
おすすめです(●´ω`●)
自分はバッドエンド至上主義者ですが
この物語を拝読して感じたのは
『世の中は本当にハッピーエンドに満ちているのか?』
という痛切な疑問だ
だっていままで、己のバッドエンド執筆に夢中で
そんなこと考えもしなかったからだ
読者たる我々は
主人公と先輩との日々を追う中で
バッドエンドの是非について考えるようになるだろう
そして最後まで読み切った時
読者たる自分は
彼の怒りを感じた
派手さはない静かな怒りだ
だが静かゆえに
どうしようもない現状への問題提起を
とても『リアル』に我々に伝えてくれる
この『気付き』はとても大切にさせてもらおう
バッドエンド至上主義者だけでなく
ハッピーエンド至上主義者に対しても
金言となりえるのだから
考えない賢者よりも
考える愚者たれ