2-6「肌の感触」

 入場ゲートをくぐり、施設内を進んでいく。更衣室の前で大きく手を振る紬に別れを告げたあと、僕は男子更衣室のほうへ足を進めた。


 小学生のころに同級生と来たことはあるが、それ以降友達を作らなかった僕にとってこういうレジャー施設みたいなものは無縁の存在だ。子供のころは水中で追いかけっこをして遊んでいたけど、もう純粋な遊びを楽しめるような年齢ではない。


 さっと着替えを済ませ、彼女との集合場所へ向かう。水着への執着が外出する億劫さを上回ることはなかったため、この日の水着はオンラインショップで適当に購入した。


 更衣室の外は相変わらず陽射しが強く、早くも日焼け止めを買っておかなかったことを後悔することになった。男に日焼け止めは必要ない、そういう愚かな判断を下した数時間前の自分にぎっちりと説教をしてやりたい。


「詩摘くんっ」


 後ろから弾むような声がした。大きく息を吐きだし、後ろを振り返る。そこに立っていたのは水着姿の、ではなくパーカーに身を包んだ紬だった。それを見て身体が地面に沈み込んだような気になったのはきっと何かの勘違いだろう。彼女は僕の顔をじっと見たあと、「なに、その顔」と得意げな顔で笑った。「別に」、心の奥底を悟られないよう、わざと低い声で返す。


「安心して。今日は痣がないからちゃんと水着だよ」


 彼女がそう言ってジッパーを滑らせると、フリルのついた白い水着、それから紬の白い肌が視界いっぱいに飛び込んできた。控えめに膨らんだ胸とかきゅっと引き締まったお腹とか、すらっと伸びる長い脚とか。自分の視線がふらふら彷徨っているのを感じて、これが目のやり場に困るということかと思った。


「……そういうことを言われると反応に困るんだけど」

「知ってる」

「最悪だ」

「で、似合ってる?」


 わざとらしく上目遣いをしてくる彼女には「どうだろうね」と答えておいた。


 プールサイドの端っこにレジャーシートを敷き、そのまんなかに荷物を並べた。手荷物のほとんどは更衣室のロッカーに預けてあるが、タオルや飲み物、それから小銭など最低限必要な物だけは携帯してきている。紬は荷物を寄せ合わせると、その上から自分のパーカーを被せた。


「ねえ、プールに来たはいいけど何して遊ぶの?」

「詩摘くんのほうが知ってるんじゃない? 私、こういうところ連れてきてもらったことないから」

「残念。幼いころに両親が事故で死んでるから、僕もこういうところに連れてきてもらったことがないんだ」


 仕返しのつもりで、彼女が反応に困りそうなことを言ってやった。それなのに「……それはごめん」なんて彼女が本当に申し訳なさそうな顔をするから、僕のほうがどう反応していいかわからなくなってしまった。


「ねえ、申し訳ないみたいな反応しないでよ。僕もそういう反応することにしようかな」

「えー、いやだなあ」

「とりあえず入ろうよ。暑いんだけど」

「そうだね」


 このままプールサイドにいては、水に浸かる間もなく干からびてしまう。軽やかな足取りで進む彼女に続き、僕は熱い地面をなるべく踏まないようにして歩いた。水辺に近づくほど、カルキの匂いが強くなっていく。


「わ、冷たっ。ねえ、詩摘くんも早くおいでよ」


 真っ先に全身を浸水させた愚かなクラスメイトを無視して、まずは右足の先を水に浸からせる。ひんやりとした感触が足先から全身を駆けていき、直前まで疎ましく思っていた暑さが早くも恋しくなってしまった。こうやって水温に慣れながら浸かるのがいいと聞いたことがある。


 騒ぎ立てる彼女を無視して身体を浸水させようとしたとき、突然、僕の右手が柔らかい感触に包まれた。彼女が僕の手を握っていた。


「え」


 次の瞬間、身体に謎の力が働いたかと思えば、バランスを崩した僕の身体は盛大な音を立てて着水することになった。咄嗟に水面から顔を出し、顔に付着した水分を手のひらで拭う。


「ふふっ、元気じゃん」


 紬に悪態を吐こうにも、一気に熱が引いてキンキンに冷えた脳では何か意味のある言葉を生成することができなかった。代わりに水中で足を引っかけ、そのまま押し倒してやる。


 僕と同じように大きな音を立てて倒れ込んだ彼女は、勢いよく起き上がったあと、不満そうな顔で僕を見上げた。手に残る肌の吸い付いてくるような感触は当分消えてくれそうになかった。


 プールで何をして遊ぶかを知らない僕たち二人は、とりあえず水流に従って一周してみることにした。


「そういえば、紬は夏休みに入ってから何してたの?」

「うーん。課題を終わらせたり、自殺の計画を練ったり」

「夏休みにしてたことを訊かれて『自殺の計画を練ってました』って答える人、そうそういないよね」

「ノートのやりたい項目が多すぎて、駆け足じゃないと終わりそうにないからさ」


 紬は水に濡れた前髪を左右にかき分けると、浮かんでいることに飽きたのか、今度は彷徨うようにして水中を歩き始めた。


「ねえ、一つ疑問なんだけどさ」

「ん?」

「なんで友達じゃなくて僕を誘ったの?」


 自殺するまでにしたい100のこと。僕は前から一つ気になっていることがあった。彼女のしたいことリストには一人ではしづらそうなことがいくつも登場する。プールも本来は僕のような得体の知れないヤツではなく、友達と一緒に出かける場所だ。


「秘密。でも、詩摘くん、私の自殺止めようとしないでしょ。それ、理由のひとつね」

「……ああ、なるほど」


 思考の外で無意識に口が動き、気づけば無難な返事をしていた。放課後の図書室で顔を合わせたあの日、彼女の悲しそうな顔を見て、彼女が生きて救われることを少しだけ願ってしまった。


 たいして付き合いのない僕が、彼女の自殺を止められるはずがないのに。龍介に相談する勇気だって出なかった。手の及ばないことを願ってしまうくらい僕は愚かだった。

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