2-5「着いてからのお楽しみ」
七月二十三日が終わると、僕の日常はあっさり夏休みの雰囲気に染まってしまった。一週間が経つころには外が明るくなってきた時間に部屋の電気を消すようになっているから不思議だ。食事を作るのが面倒なせいで、台所のゴミ袋は冷凍食品やインスタントラーメンの抜け殻で膨らんでいく。
龍介からはアルバイトをしろと勧められたが、一度面接に落ちてからはすっかりやる気をなくし、いつの間にか冷凍食品を温める日々に戻っていた。幸い、人付き合いがないおかげで高校卒業まで生活費にはいくらか余裕がありそうだ。アルバイトを始めるのはまだ先でいい。
『明日ひま? 暇だよね。明日の朝九時、駅に集合で。持ち物は――』
昼夜逆転生活を営んでいた僕を引っ張りだしたのは、やはりと言うべきか、瀬川紬から送られてきた長文のメッセージだった。簡潔とは言えないまでも用件と日時、それから持ち物が書かれたそのメッセージは、面倒なやりとりを嫌う僕にとって都合がよかった。
当日、僕はいつものリュックに加え、トートバッグを抱えて自宅をあとにした。正直なところ眠気のせいで体が重くて仕方がなかったし、空から降ってくる陽射しは僕の知る光の概念を覆すほど鋭かった。
それに、一歩進んだだけで風呂場のような熱気が全身に絡みついてくる。危うく家を出た瞬間から引き返すところだった。
家から最寄り駅まで、自転車を使えば一〇分もかからない。それなのに額からは滝のように汗が流れ落ちてくる。ここ最近、家を出たのは夜中にスーパーで食糧を買い足すくらいだったから、昼がこんなにも過酷な環境だったなんて長らく忘れてしまっていた。
自転車を停めて改札へ向かうと、そこには白いワンピースを着た紬の姿があった。すぐに僕の存在を察知したようで、こちらを振り向くと慌てたように駆け寄ってきた。
「わ、来なかったらどうしようかと思ったあ」
「え、来ないと思ったの?」
「だって、返信なかったし」
たしかに返信はしなかった。でもトークを開いたから既読の文字はついていたはずだし、断る旨の連絡を入れることもしなかった。これ以上何を伝えることがあるというのだろう。
それを聞いた紬は頬を膨らませると、「普通は『りょうかい』とか『わかった』とか、返信するものなんです」と不機嫌そうに言った。一応、「ごめん」と謝っておく。「別にいいけど」、笑顔の滲んだ声が返ってくる。
「で、今日はどこに行くの?」
「着いてからのお楽しみ」
紬はそう言って微笑んでいるが、彼女が指定した「水着」という持ち物から、目的地がプールであることはなんとなく察しがついていた。それに、『プールで遊ぶ』、たしか彼女のノートにはそういう項目があったはずだ。集合場所に着くまでの酷暑に耐えられたのも、どうせこのあと涼しい思いができるからこそだ。
午前中にもかかわらず、電車のなかはひどく混み合っていた。夏休みに入って十日、まだまだ外出を試みる人は減らないらしい。電車に乗り込んだ撲たちは、扉近くのスペースで人混みをやり過ごすことにした。
「詩摘くんっていつも、昼休みの間どこにいるの?」
次は――。車内アナウンスに覆い被さるように、隣から透き通った声が聞こえてくる。
「屋上。普段は閉鎖されてるけど、裏道があるんだよ。図書室前の窓を出ると屋上に続く道がある」
「えー、今度私も行っていい?」
「暑いし、おすすめはしない」
「夏休みが終わったら大丈夫だよ」
それから、足を踏み外したらそのまま地上へ落っこちてしまう可能性もある。そう言おうとしてやめた。きっとこの自殺志願者に、死の危険を使った牽制は意味を持たない。
「じゃあ万が一来るとして、友達になんて言うの」
「うーん。詩摘くんとご飯食べてくるって」
「やめてくれ」
僕が遠回しに拒否し続けても、紬は頑なに引き下がらなかった。なにか屋上に思い入れでもあるのだろうか。彼女は僕がそれを尋ねるよりも先に生成り色のノートを取りだすと、「これ」と言ってノートの一ページを提示した。そこには『屋上でお昼ご飯を食べる』という丸っこい文字が綴られていた。
紬とどうでもいい話をしたり脱毛や英語力がどうとかいう広告を眺めたりしていると、数十分の移動時間はあっという間に経過してしまった。電車を降りるとまた陽射しに蒸発させられそうになったが、すぐにプールらしき施設が目に入ったため、さきほどのように暑さで家に帰りたいと思うことはなかった。
プールへの案内看板はいやに太陽の光を反射していて、見ているだけで体の内側から暑苦しさが込みあげてくる。いや、もしかしたらこれこそが運営側の策略なのかもしれない。
案内に従ってチケット売り場に並んでいるとき、僕はそこでようやく自分が女子と二人きりでプールに遊びに来てしまったことに気づいた。
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