2-7「飛び降り自殺」
「ねえねえ、ウォータースライダー、乗ってみようよ」
僕の思考を遮るように、溌剌とした表情で紬がそう言った。「ああ、いいじゃん」、彼女の提案に賛成し、頭を振って余計な妄想を端へと追いやる。近くの手すりを使ってプールから上がったとき、もわり、冷房の効いた部屋を出たときのような熱を感じた。
「高っ……」
階段を登るのが苦しくなってきたころ、僕たちはようやくウォータースライダーの乗り場にたどり着くことができた。高さは学校の屋上と同じくらいだろうか。隣で紬は「弱虫」などと笑っているが、生憎僕は自殺志願者ではないのでここから落下してもいいとは思えない。
「たしかに、高いところから落ちて死ぬのはいやだなあ」
偶然思考が一致したのか、紬には僕の考えを読む能力があるのか。どちらが正しいのか定かではないが、とにかく彼女は大きく笑いながら人間として当然のことを言い放った。
「でしょ? 落ちて死にたくないでしょ?」
そんな話をしている間にも、冷凍パスタのようにうねったスライダーの所々から甲高い悲鳴が聞こえてきて、僕の恐怖をさらに引き立てている。相談の結果、やむなくということで紬が先に滑ることになった。
「わあ、緊張する」
そう言いながら乗り口に腰掛けた彼女は、一度こちらを振り返ると、その表情に満面の笑みを滲ませた。緊張しているようには見えなかったし、彼女は平気でどうでもいい嘘を吐くから、その言葉が本来の意味を持っているとは考えづらい。
紬がウォータースライダーに吸い込まれて見えなくなったころ、傍らに立っていた係員が「次の方ー」と呆けた声で言った。それまで診察待ちをしていた気分だったのが、今度は執行日を聞かされた死刑囚のような気分になった。
後ろの人を待たせるわけにもいかないし、ここで離脱したら彼女から数ヶ月はそれを擦られそうだ。覚悟を決めて乗り口に腰掛け、そのままスライダーへ身を投げだす。
「うわっ!」
突然身体に推進力が働き、右、左、右とカーブに沿って猛スピードで進んでいく。想像以上の速さに、悲鳴を上げる余裕すらない。遠心力で外に放りだされると思った瞬間に強い衝撃を受け、スライダーのゴールに到達したのだと知った。
「おつかれっ。どうだった?」
「……たぶん、三回くらい死んだ」
出口の付近で待機していたのか、紬は機嫌がよさそうに僕の肩を叩いた。手足の感覚が曖昧で、自分がまだ生きているかどうかも怪しい。
「あれくらいで死ねるなんて、羨ましいことで」
紬が今度は僕の背中を叩いてきたからやり返そうかと思ったが、結局気軽に触れるのはよくない気がしてやめた。手にはまだ、さっきの肌の感触が残っていた。
その後は波のプールや子供用の浅いプールを回っていたが、時計が十二時を指すころには流石に体が冷えてきてしまった。休憩しようという僕の提案に、紬は明るい声で「そうしよう」と頷いた。
小腹が空いてきたという意見が一致した僕たちは、入口近くにあった売店へ足を運ぶことにした。レジャーシートに戻って小銭を取り、売店を目指す。
紬から聞いた話によると、このあとは近くのカフェでランチにする予定らしい。それを考慮してフランクフルトだけに留めておいた僕に対し、紬は威勢のいい声でアメリカンドッグとフライドポテト、それからたこ焼きを注文し始めた。「満腹になっちゃうよ」と耳打ちすると、「太れるうちに太っておかないとね」という、わかるようなわからないような言葉が返ってきた。
熱された地面を跳ねるようにして歩き、僕たちは無事、レジャーシートへの帰還を果たした。二人とも両手が埋まってしまっているが、もちろん僕が持つ片方は紬のものだ。
「詩摘くん。ポテト、食べる?」
「ん、もらう。ありがとう」
軽く礼を言い、彼女が差しだした容器からポテトを一本引き抜いた。プールで体が冷えたせいなのか、味が少し薄く感じる。それでも体に広がる淡い塩分は、疲れで薄れた活気を補充してくれるようだった。
プール遊びをしている間は意外と早く時間が経ってしまうらしい。何をすればいいかわからないなんて言っていたのに、気づいたら昼時を迎えているのだから恐ろしいものだ。
「それ、一口ちょうだい」
ぼうっとフランクフルトを口に運んでいると、突然、視界の正面に彼女が割り込んできた。「え、いいけど」、声が裏返ってしまったのは決して下心があったからではない。
フランクフルトを渡そうとしたとき、持ち手が自分の指で埋まっていることに気づいた。仕方なく手を伸ばし、地面に放置していた発泡スチロールのトレーを引き寄せる。
「ん」
トレーに置こうとしたとき、視界の端で紬のちいさく口を開けている様子が見えた。そんな恥ずかしいことを公共の場でできるか。そう言ってやろうとしたが、それで僕が彼女を意識しているように思われたら面倒だ。
周囲を見回して誰の目も向いていないことを確認したあと、そっと彼女の口元へフランクフルトを近づけてやった。異性に食べさせてあげているというより、小動物に餌やりをしている気分だった。代わりにもらったアメリカンドッグは、彼女が口を付けた部分だけ少しひんやりとしていた。
食事を堪能した僕たちは、再び軽くプールで遊んだあと、予定より遅れて、昼食を摂るために近くのカフェへ向かった。『お洒落なカフェでランチを食べる』、彼女の計画通りなのか偶然なのか、僕たちがカフェに到着したのはランチタイムが終わる五分前だった。
それぞれが注文を終えると、突然、紬が机にノートパソコンを広げた。「パソコン?」、なんとなく尋ねてみると彼女はバッグから生成り色のノートを取りだし、それからまんなか辺りのページを開くと、得意げな笑顔で紙面をこちらへ向けた。
「『小説を書いてみる』……。え、小説書けるの?」
「やってみなきゃわからないでしょ」
紬はそれだけ言うと、視線を画面に落とし、キーボードを打ち始めてしまった。
小説が好きなことと小説を書くことは、能力のベクトル自体が異なっているような気がする。自分が新しく物語を作りだせるとは思えないし、書いたとしてもつまらない話になってしまいそうだ。
それはたぶん、僕の人生がつまらないからなのではないだろうか。自分の人生を諦めてしまっている。次第に、僕と彼女はそういう点で一致しているような気がしてきた。
注文していた料理が運ばれてくると、紬はノートパソコンを端っこへ追いやり、「待ってました」と言わんばかりの表情で自分のプレートを引き寄せた。テーブルには水の入ったグラスやピッチャーが置かれているので、倒れてパソコンが浸水しないか見ていて不安になる。
「あ、美味しい」
ランチプレートのグリルチキンは甘辛いタレが鶏肉にマッチしていて、空腹の胃に優しく馴染んでくるようだった。引きこもっていたせいで長らく忘れていたが、運動後に摂る食事の幸福度は普段と比べものにならないほど高い。正面で同じ品を頼んだ紬も終始満足そうな表情でチキンを頬張っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます