2-8「主人公が救われない物語」

 ランチを充分堪能したあと、食後のコーヒーを飲みながらひと休憩することになった。紬が再びノートパソコンを机に広げるのを見て、僕もリュックから読みかけの小説を取りだす。


 顔を歪めながらコーヒーを啜っている紬はおそらく、『コーヒーを飲んでみる』のような項目をこなしている最中なのだろう。問いかけてみたところ、僕の予想は見事に的中していた。


 彼女と言葉を交わしている間は、心の通り道に詰まった塊が、身体の外へ押しだされていくような気分になる。もし僕が誰かに心を開くことができていたら、友達を作ろうとしていたら、こういう楽しさを日常的に味わうことができていたのかもしれない。


 僕にはもう遅すぎた。楽しいという感情はそのまま、気づけば罪悪感に姿を変えていた。


 人生を諦めているという点では同じはずなのに、彼女がこんなに輝いて見えるのはなぜなのだろう。僕と彼女では一体何が違うというのだろう。


「人気の小説ってさ、ハッピーエンドが多いと思わない?」


 突然、前から声がした。小説から顔を上げ、彼女のほうへ視線を送る。


「え? そうなの、かな」


 たしかに、言われてみれば最近読んだ小説はハッピーエンドのものばかりだった。昔話も「めでたし、めでたし」で終わるものが多いし、彼女が言っていることは案外的を射ているのかもしれない。


「でも、現実は救われないことのほうが多いと思う」


 パソコンに視線を貼り付けたまま、紬が呟くように言った。こちらからは見えないが、パソコンの画面には悲しみそのものが映しだされているような気がした。気の利いたことが思い浮かばず、「たしかにそうだね」、ついありきたりな相槌が口を衝く。


 彼女は顔を上げて少し困ったように微笑んだあと、視線をまたパソコンへ落っことしてしまった。


「私、主人公が救われない物語を書きたいの。現実はそう上手くいかないんだよって」


 もしかしたらみんな、現実は上手くいかないと知っているから小説の「上手くいく世界」に逃げているのではないか。そこに思考を巡らせていると、次第に僕と紬の違いが明確になっていく気がした。


 自分は現実から逃げているが、紬は現実を見た上で人生を手放す選択を取っている。彼女にとっては親から淘汰されているという現実を変えることができないし、これまでの苦しみを上手く溜飲することもできない。その先にあったのが自殺という選択肢なのではないだろうか。


 そうだとすれば彼女が輝いて見える理由にも納得できる。生を手放したからこそ、いまある生を輝かせることができる。


 艶のある黒いロングの髪に、吸い込まれそうなほど透き通った肌。そしてそこに飾られたハイライトの強い瞳。こんな人が近いうちに死んでしまうなんて想像がつかない。瞳が輝きを失い、彼女に触れたときに感じた体温がなくなる。


 彼女の死体を想像しているときに目が合い、妙な気まずさを感じた。


「よし、一段落した! もうひとつ行きたい場所があるから、そろそろ出よう」


 彼女は傍らにあったノートへ手を伸ばすと、見せつけるようにそのうちの一ページを広げた。『夏の夕方、土手で散歩する』、丸っこい文字がノートの上で躍っているようだった。無機質なものが意思を持っているように思えたのは、彼女が人間として生きている様子をたしかに感じられたからなのかもしれない。


 最寄り駅のホームを踏んだころには、すでに太陽は夕日としての職務に従事していたようだった。土手に敷かれたアスファルトの道を、タンクトップ姿の中年男性がランニングしている。離れた場所ではリードに繋がれた犬が男か女かもわからない老人を引っ張っていて、これではどちらが散歩に連れられているかわからないと思った。


「涼しい」


 風が吹くたび、ひらり、白いワンピースが踊っているようだった。気の利いた背景を作りだそうとしているみたいに、夕日が川の水面にキラキラと反射している。


「まだ暑いよ」

「君は寒さに弱いけど、暑いのも苦手なんだね。もっと鈍感に生きるべきだよ」

「できたら苦労してない」


 口ではそう言いつつ、鈍感に生きることができないとはむしろ正反対だと思った。


 楽しいとか悲しいとかそういう心が揺れ動くようなことではなくて、味気のない淡々としたものを取り入れようとしている。身体が求めているのは、どれも無機質なものばかりだった。だから昼休みには一人で屋上に行くし、珈琲だって砂糖やミルクを入れないで飲む。甘いものを心から排除しようとしている。


 感傷的な気分を抱いたときは、それを共有した人との距離が格段に近くなるような気がする。たしかに、今日は楽しかった。それなのに僕は、自分の世界から紬を追いだそうとしている。


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