2-9「死んだ、花火」
「ねえ、詩摘くんは死にたいって思わないの?」
いつの間にか僕たちの周りに人の姿はなくなっていた。目に入るのは土手の景色と、やけに間延びした二人ぶんの影だけだった。
「思わない。死にたくなるくらい苦しい思いはしてないから」
自分が経験した程度の苦しみで希死を謳っていたら紬に失礼だ。彼女との間にある不幸の度合いは、僕が苦しんでいる姿を見せることすらおこがましいくらいの差がついている。周りと違うくらいで苦しいと思ってしまう自分が情けなかった。
「残念。一緒に死ねるかな、なんて思ったのに」
「僕と一緒じゃ嫌でしょ」
口に出してから、なんだか自分が卑屈なやつのように思えてきた。それでも、吐きだした言葉が本心であることに変わりはなかった。
「なんで?」
「大切でもない人と一緒に人生の最期を過ごすなんて、僕には理解できない」
どうして自分だったのだろうと思う。紬の最期を見届けるのは自分なんかではなくて、もっと彼女を大切にできる人間のほうがいいのではないか。そういう考えが頭のなかをぐるぐると回っている。
「少なくとも私は――」
「他人を心の内側に入れるなんて、馬鹿のすることだと思う」
夕日、薄い雲に隠れた橙色の光が、輪郭を押し広げるみたいに彼女の瞳を照らしている。遠くに見える高架を、先ほど乗っていたのと同じ種類の電車が通り過ぎていった。
母親の産後うつが原因で両親は慢性の鬱病を発症し、その結果事故を起こした。高所から転落するという言い逃れのできない単独事故だった。遺書にはなぜか、僕を大切に思うような文章があった。子供を殺すくらいならと自分の命を絶ったらしかった。
「誰かを大切に思うことは不利益ばかりだと思う」
「……そうなの、かな」
紬の言葉を最後に、二人の間を沈黙が行ったり来たりしていた。自然と足を進めていた先で階段に差しかかり、どちらが先導するでもなく、二人横に並んで下っていく。川辺にはススキのような雑草が鬱々しく生い茂っていて、背伸びをしなければ水面を覗くことができなかった。
紬は傍らに転がっていた青いポリバケツを指さすと、「花火、しよ」、弱々しい声で言った。
「うん」
紬は身体の向きを換えると、進んできた道を反対に歩き始めた。景色が反転しても、思考の方向は変わらない。彼女は土手を降りたところにあるコンビニを目指しているようだった。
蝉の声が聞こえる。太陽の本体はもう見えなくなってしまったのに、まだ西側の空は明るく照らされたままだった。スピーカーから吐きだされた夕焼けチャイムがあたりの空気をぼうっと揺らし、身体全体が押し固められたようになる。その音の切れ目に、「私」、紬の呟くような声を聞いた。
「私が死ぬまで一緒にいるべきなのは、やっぱり詩摘くんだったと思う」
答えようとして口を開くも、結局僕は何か意味のある言葉を返すことができなかった。建前なのか本音なのか、考えてみてもわからなかった。僕たちがいまこうして土手を歩いているのも、偶然が重なり続けなければあり得ないことだった。
「あのさ、詩摘くんのご両親はさ、本当に交通事故だったの?」
丈のある雑草が風に揺られ、ざわざわと音を立てている。川に幾何学的な波紋が浮かんでいる。夕焼けチャイムの余韻が、まだ空中に留まっているような気がした。
「……なんで」
紬の言葉に、正面を向いたまま返事をした。脳内に浮かんだ疑問を、「なんで」の一言で解決することは明らかに不可能だった。足音、砂利を擦る空気の振動がふたりぶん、静かな河川敷でこだましている。しばらくの沈黙のあと、紬は、「なんでもない」と言うだけだった。僕もそれ以上追求しなかった。
コンビニで適当に花火を購入し、また土手の階段を登る。空の橙はすっかり藍色に塗り替えられてしまっていた。川辺へ足を進めていくたび、人工的な光がどんどん存在感を薄めていく。青いポリバケツを拾うころには、弱々しい月明かりがアスファルトを照らすのみになっていた。
「私、もし飛び降り自殺するなら、あのマンションからにしようと思う」
彼女は花火に火をつけると、その先端を対岸のひときわ大きなマンションへ向けた。激しい光によって、彼女の示した建物が暗闇に溶け込んでいく。
「……首を吊るんじゃなかったの?」
「飛び降りるなら、の話。もし本当に嫌になったら、君のこともやりたいことも全部放り捨てて飛び降りるかもしれない」
マンションの真下に、車の赤いランプが一直線に並んでいた。水が流れる音の向こうから、対岸の激しいクラクションが聞こえてくる。
「どうしてあそこなの?」
「ここら辺で一番高いから。ほら、天国に近いでしょ?」
「……どうせ死ぬのは地面だよ。どこから飛び降りても」
「飛び降り自殺をするとき、落ちてる途中に気を失うらしいよ。だから、死ぬのは実質空中なんだよ」
死ってなんだっけと思った。ライターの火が消えないよう、身体で風を遮りながら花火を近づける。手間取っているうちに、それまで輝いていた紬の手持ち花火が静かに光を失った。彼女は興味がなくなったように視線を落としたあと、青いポリバケツへ花火の死体を放り込んだ。
「……あのさ。突発的に死ぬならさ、せめて僕には教えてよ」
「どうして?」
「後味が悪い」
知らないうちに彼女が自殺してしまうことを想像すると、心臓がぐっと重さを増していくことに気づいてしまった。こうして少しは自殺に協力したのだから、せめて最後に言葉だけでも交わしたい。しばらくしてから、「考えとくね」、ちいさな笑い声が聞こえてくる。
彼女は僕の手からライターを取ると、もう一本、新しい花火に火をつけた。それから今度は火の付いたそれを僕の花火に近づける。花火の炎を吐きだす音が増幅する。
「ねえ、詩摘くんは天国ってあると思う?」
「ない」
僕がそう答えると、花火に照らされた彼女が少し悲しそうな顔をしたのがわかった。それを見て、失敗したと思った。
それでも、昔の人は物事を都合よく見すぎている。動いているのは太陽ではなく地球のほうだし、電気の素が流れるのも実際のところは負極からだ。先人の妄想のせいで、紬のように苦しい思いをした人間が天国を信じて死んだのではあんまりではないか。
「なんか、幸せだなあ」
彼女のほうへ視線を送ったとき、ちょうど花火が終わるところだった。その表情を見ることはできなかったが、その声は悲しみというよりもっと怯えに近い色を含んでいるように思えた。だから僕は自然と、「怖いの?」、脈絡のない質問をしてしまった。
花火、僕の手に握られた炎がどんどん弱まっていく。それに比例するみたいに対岸の灯りが力を強めていくから、世界は平等にできているんだなと思った。
「うん、もしかしたら、怖いのかもしれない。たぶん、幸せになるのが怖いんだよ」
幸せになるのが怖い。紬が口にしたのは僕と同じ考えだったのに、根底の部分で全く違う方角を見ているように思えた。
紬は、幸せになればなるほど不幸の色が鮮やかになっていく。彼女はいま楽しい思いをしても、帰ったら絶望が待っている。孤独、それ以上の痛みが紬を覆い尽くそうとしている。
「……うち、来る? 誰もいないし」
僕がしてやれることはなんだろう。対岸の景色をじっと眺めてみても役に立ちそうな言葉が思い浮かぶことはなく、結局僕にできるのは一時しのぎに避難場所を作ってあげることだけだった。軽々しくそんなことを口にできたのは、紬と一緒にいる間は罪悪感を忘れられるからだったのかもしれない。救われようとしているのは自分のほうだった。
花火が消えると、暗闇に溶け込んでいた紬の表情が鮮明になっていった。目を丸くしていた彼女の視線は、地面に落っこちたあと、バケツのなかで死んでいる花火を経由し、それから先ほどのひときわ高いマンションのほうへ流れていった。口を開いて、閉じる。少し困ったような顔をして、再び僕のほうを向いたかと思ったら、いつもの得意げな笑顔を浮かべて「今度ね」と言った。
手元の花火を消費し終わったころ、紬がちいさく「もうすぐ花火大会だね」と言った。
「うん、そうだね」
「『浴衣を着て花火大会に行く』。来週ここでやる花火大会、一緒にどう?」
「いいけど、友達とじゃダメなの?」
「でも詩摘くんは暇でしょ?」
「うん、まあ」
「じゃあ、約束ね」
別れるとき、紬はいつもの笑顔で「じゃあね」と言った。紬は強いなと思った。家に帰る途中、「今度ね」と笑った彼女を思いだして、頬が緩んでいることに気づいた。
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