第3章『内側に青が籠もっている。』

3-1「ふわとろオムライス」

 花火大会の当日はいつもより早い時間から意識が覚醒していて、そのまま二度寝するにはもったいないと思った僕は、朝食を摂りながらワイドショーを眺めることにした。何をしていても、身体の押し上げられるような感覚がなくなることはなかった。


 デジタル時計がちょうど昼の一時を表示したころ、唐突に料理でもしてみようと思った。しかしいつもと違う決断をしてみたところで、冷蔵庫にはいつのものかもわからない調味料くらいしか入っていない。


 普段ならここで電子レンジに冷凍食品を放り込んでいただろうが、どういうわけか僕は、カーテンレールにぶら下がっていたシャツを頭から被り、それからベッドの傍らで寝そべっていたスキニーパンツを手に取ると、次の瞬間には財布を片手に家を飛びだしていた。


『十七時に最寄り駅集合ね!』


 一日の天気を確認しようとしたのに気づけば紬からのメッセージをまた眺めているから、自分でも変だなと思った。結局部屋を出るまで天気を調べることはなかったため、外に出てから初めてこの日の気温が高かったことを知った。暑さによる憂鬱よりも、今夜は雨が降らなさそうだという安心感のほうが強かった。


 近所のスーパーに入ると、酒でいっぱいのビニール袋を抱えた大学生らしき集団とすれ違った。花火大会というイベントに定石通りの期待を抱いているのが自分だけではなかったことになんとなく安心する。


 食材を買って帰宅し、十分も経たずに完成したオムライスはお世辞にも美味しいとは言えない仕上がりだった。チキンライスは水分を飛ばしすぎた上に焦げ付いているし、卵は見た目も火加減も最悪だ。それでも冷凍食品に比べれば人間らしさみたいなものを感じたから、家庭料理の温かみって本当に存在するんだなと思った。


 食器の片付けや洗濯が終わったころ、垂れ流しにしていたワイドショーから午後三時のコールが挙がった。それを聞いて集合まで残り二時間を切ったことを知り、これまで浮遊していた心がさらに軽くなっていく。


 時間を潰すつもりでゲームコントローラーや小説を手に取っても、全くと言っていいほど集中できなかった。時間の経過というものはどうしてこういうときばかり歩みを遅らせてしまうのだろう。なんとか時間を繋ごうとはしていたものの、結局十六時を迎えるより早く浴衣を引っ張りだしてしまった。


 動画投稿サイトで浴衣の着付け方を見ながら袖を通し、帯を結ぶ。浴衣を纏ったあとは退屈に押しつぶされそうになって、予定より三十分以上も早く玄関の扉を開けてしまった。


 時間も経ったし、少しは涼しくなっているころだろう。そういう僕の考えはだいぶ楽観的だったらしく、昼に買い物をしたときから気温はほとんど変化していないようだった。それでも引き返すのは嫌だったため、少々悩んだあげく、遠回りをして集合場所へ足を運ぶことにした。どうせ今夜はずっと外を歩くのだ、それが数十分増えたとしてもきっと変わらない。


 花火大会の開始時刻は十九時だ。しかし一時間以上前から目立って混み始めるらしく、そうであれば早めに集まってしまおうというのが僕たちの算段だった。


 集合場所に到着したのは予定の二十分も前だった。決済音を奏で続けている改札からは、まるで噴火するかのように浴衣を着た人たちがどんどん吐きだされている。付近でその流れをぼうっと眺めている僕の、すぐ目の前をカップルらしき男女が通り過ぎていった。もしかしたら僕たちも、並んで歩いていたらカップルと勘違いされてしまうかもしれない。


 普段だったら僕が集合場所に着くと、そこにはすでに紬の姿がある。早くから集合場所にいる僕を見たら彼女は驚くだろうか。そんなことを考えながら人の流れを眺めていたものの、約束の十分前になっても紬はまだ姿を現さなかった。


 日はまだ明るい色をしていた。黄色い光がマンホールに反射し、視界が丸ごとぼやけたようになっている。電車が発車することを知らせる陽気な音楽は、駅の外にいても、ホームに立っていると錯覚するほどの音量をしていた。


 次第に改札を通る人が増えていき、僕の待つスペースにまで観客が溢れてくる。携帯を取りだし、『大丈夫?』、入力した文字を一度削除した。彼女とのやりとりを遡り、花火大会へ行く約束をしていたことを確認する。日付や時間を見返してみても、いま僕がこの場所にいることは間違いではなさそうだった。時刻が表示を変えるたび、身体がアスファルトに沈み込んだようになる。送信するかを迷っているうちに、時刻はとうとう約束の十七時を迎えてしまった。


 結局メッセージを送信してみたものの、紬が現われることも携帯が震えることもないまま待ち時間だけが蓄積されていく。改札から出てくる人の数がどんどん膨れ上がっていく。


 ここで待つべきかを悩んだ結果、会場へ足を運んでみることにした。彼女の身に何かあったのかもしれない。嫌な想像をしてしまうせいで、ここに立っているだけでは不安で頭がおかしくなりそうだった。


 一度明度が落ちれば空はどんどん光を失っていくから、そのぶんだけ僕の心にも焦りが翳っていく。そうだ、返信が来ているかもしれない。携帯を取りだして画面を確認したとき、僕は思わず足を止めてしまった。


「……え」


 後ろから舌打ちが聞こえてくる。軽く頭を下げて端に移動し、もう一度画面へ視線を落とした。表示されているのは、紛れもなく紬からのメッセージだった。


『詩摘くん、いままでありがとうございます。自殺することにしたので、約束どおり、一応報告しておきます。誘っておいてごめんなさい』


 表示されている送信時刻は、一時間以上も前だった。多くの人が誰かと連絡を取ろうとしているせいで、回線が混み合っているのかもしれない。ふわり、湿った風が背中に汗を誘発している。吸水性の悪いインナーが背中に貼り付いている。


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