3-2「呪いのことば」

『どこにいるの?』


 じっと待ってみても、回線が低速になっているせいでなかなか送信されなかった。進まない人混みにも送信待機表示のメッセージにも苛立ちが募る。胸のなかで不安が膨らみ、内側から体を壊そうとしているみたいだった。


 紬がこの瞬間、自殺しようとしている。原因は家族関係だろうか。母親との間に一体何があったのだろう。彼女の状況を想像しようとしたのに、僕は紬の死にたい理由を漠然としか理解していなかった。


『もし嫌になったら君のこともやりたいことも全部放り捨てて飛び降りちゃうかもしれないし』


 紬の言葉が浮かび、ハッとした。そうだ、対岸の高層マンションだ。紬は飛び降りるならあそこがいいと言っていた。それが本当かはわからないし、気まぐれで別の自殺手段を採っていたらどうしようもない。しかし僕は、その可能性に縋るしかなかった。


 対岸のマンションまでは電車を使うのが一番速い。しかし夥しい量の観客で溢れたあの駅を使っていては、電車に乗るまでに気の遠くなるような時間がかかってしまう。その間に紬が飛び降りてしまうかもしれない。


 悩んだ結果、走って対岸を目指すことにした。浴衣なんてほとんど着たことがない上にサンダルだって走るのには向いていない。それでも僕は、肺が苦しくても鼻緒で皮膚が擦り切れても足を止めることができなかった。


 突然大きな破裂音が響き、横隔膜の底が、重く震えたようになる。ついに始まってしまったのかと思って顔を上げてみたが、周囲の会話からまだ試し打ちの段階であることがわかった。続けて響く大音量に、意識が数センチ、浮き上がる。数歩先で身体が現実感を取り戻したとき、唐突に、あれ、自分は一体何をしているのだろうと思った。


 自分はいま、紬の自殺を止めようとしている。果たして、そうする権利が僕にはあるのだろうか。


 一年をかけて死ぬまでにやりたいことをする。おそらく彼女は、そう決めていても耐えられないほどの苦痛に襲われ、いますぐに命を絶とうと考えている。


 僕はこれまで、なんのために生きていけばいいのか全くわからなかった。いま、僕の価値は「自殺を止めない同級生」というところにある。そのアイデンティティを失ってしまえば、紬と一緒に過ごすことによってようやく生まれた、将来を目指す意味みたいなものがまるごとなくなってしまうような気がした。


 内臓が鈍く痛むようになってきたころ、僕はようやくマンションのエントランスにたどり着いた。浴衣を着た親子が自動ドアを抜けるタイミングを見計らい、構内に侵入する。もしここに紬がいなかったら。余計な心配ばかりが頭のなかをぐるぐると回っている。


 エレベーターに乗り込み、最上階ボタンを連打する。永遠にも感じる時間を使ってドアが閉まったあと、またそれ以上の時間をかけてエレベーターが上昇していった。階数が読み上げられている間に開きかけた扉をこじ開け、体を外に投げだす。扉に強く激突した両肩を気にしている余裕はなかった。


 廊下を走っていると上へ続く階段があり、その傍らには「関係者以外立ち入り禁止」という貼り紙がされていた。視線を外し、急いで階段を駆け上がる。肺が痛い。心臓が苦しい。向こうで紬がいつもの得意げな表情を浮かべていることを想像しながら、「屋上」と書かれた扉を勢いよく引いた。


 突然、大きな爆発音がした。脳を揺らされたようになって、一瞬、視界に映るすべてのものから輪郭が失われる。藍色の空に、満天の花火が咲いていた。その下で、ひらり、白いワンピースが風に揺られている。空の花火がしおれていくにつれて、彼女の顔に光が戻っていった。


「紬っ」


 紬の目を真っ直ぐ見る。口の端は赤に、頬は青に染まっていた。屋上に風が吹くたび、ワンピースの裾がふわりと波を打つ。そこから覗いた脚の内側に、いくつもの青が籠もっている。丸い目から頬にかけて、涙の通ったあとが引かれていた。


「……浴衣。お母さんに捨てられちゃった」


 言い訳、せめて花火大会が終わってからにしようとか生きていれば幸せになれるかもしれないよとか、そういう無意味な文章が頭のなかをぐるぐると回っている。やはり定石の言葉で彼女を止めることはできそうになかった。


「うちに、浴衣、あるけどっ」


 呪いのようだった。紬が僕に「君は自殺を止めない」なんて言うから、僕はその理想に従おうと、彼女を止めることができなくなっている。嫌われてもいいから阻止しようとまではどうしても思えなかった。


 ワンピースのふちに、花火の黄色い光が這っている。一輪、もう一輪と空に大きな花が咲き、感動する暇もなく死んでいった。「……おばあちゃんの、お下がりだけど」、花火の音に覆われてしまった僕の声はそれでも上手く届いたようで、彼女はおもむろに顔を上げると、うん、微かに頷いた。


「紬、行こっ」


 僕には紬が必要だから。続けて吐きだした言葉が花火の破裂音に覆われて、口だけが動いたようになっていた。


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