3-3「本当に死ななくちゃいけないのかな」
屋上の扉に手を掛けたとき、後ろから靴の地面を擦る音が微かに聞こえてきた。黙ったまま階段を降り、エレベーターに乗り込む。ちいさな箱のなかにまで花火の重低音が響いてくるから、紬との間に流れている沈黙もさほど気にならなかった。
駅の喧騒は紬を探し始めたときとほとんど変わっていなかった。改札にICカードを翳し、駅構内に足を踏み入れる。ホームで電車を待っている間、僕は人生で初めて騒がしい雰囲気に安心させられた。
電車内はいつかネットで見た音楽フェスの会場を彷彿とさせる混み具合で、紬どころか多くの乗客と体を密着させる状態になった。
彼女にどう声をかけようか迷っていたところ、突然、僕の左手がなめらかな人肌の感触に包み込まれた。思わず、紬のほうへ視線を送る。彼女は僕の胸に顔を埋めるような格好で立っていて、その軽く俯いたままの表情を見ることは叶わなかった。
全方向から熱が伝わってくるのに、紬の体温だけやけに強く感じる。僕は、無意識のうに、紬の手を強く握り返していた。
自宅の最寄り駅で電車を降りても、それから改札を通ったあとも僕たちは互いに手を離さなかった。遠くから、地を震わすような重たい音が聞こえてくる。ときどき花火の音が止まる瞬間があって、そういうときは毎回、自分の緊張が繋いだ手から伝わってしまいそうだった。
自宅マンションに到着し、エントランスを解錠するとき、意思と関係なくするりと手が離れた。肌の触れ合っていた部分を、風が冷たく通り過ぎていく。エレベーター内で僕が紡いだ「間に合うかな」は、ほんの少しだけ震えた声になってしまった。「間に合うといいな」、紬の返答がエレベーターの機械音の隙間から聞こえる。
「汚いけど」
「……ううん。お邪魔します」
「ベッドにでも座ってて」
そう言って案内したベッドの側には飲みかけのペットボトルや脱いだままの服が転がっていて、急いでそれらを回収したあと、押し入れのなかから浴衣が入っているであろう段ボールを引っ張りだした。それからガムテープを引きちぎり、中身を確認する。記憶にあったとおり、なかには藍色の浴衣が綺麗に折りたたまれて入っていた。
「古いけど、これでよければ」
「いいの? 借りちゃって」
「うん、紬がよければ」
僕が浴衣を手渡すと、「ありがとう」、紬は綺麗な笑顔で言った。今日の紬はどこかがおかしい。いや、いつも余裕そうな笑みを浮かべている彼女が自殺を決行しようとしたのだから、普段と変わらないはずがなかった。
「そっち、使っていいから」
紬は僕の言葉に頷くと、一歩ずつたしかに踏みしめる、みたいに部屋をあとにした。僕が住んでいるのは1Kの小さな一室だ。玄関を入るとキッチンがあり、その先に部屋が一つある。僕がいる部屋とキッチン側は扉で区切られているから、紬もすこしは安心して着替えることができるだろう。
紬が着替えている間、手持ち無沙汰を埋めるためにベランダから花火を眺めることにした。方角や距離から考えて、ここからでも花火を見ることができるはずだ。外を覗いてみると、案の定、遠くの空に花火の輝いている様子が見えた。対岸のマンションから見たものよりは格段にちいさかったが、それでも充分すぎるくらい花火は綺麗だった。
花火の破裂音に混じって、キッチンから布の擦れる音が聞こえてくる。その音は官能的というより、静かで悲しい属性を帯びているように思えた。
しばらく一人で花火を眺めていると、扉の向こうから「着た」と声が聞こえた。原因不明の熱が脳から滴ってきて、腹の底のほうに溜まっている。扉を開けて入ってきた紬は、夜を体現した存在そのものだった。
さきほどまで自殺しようとしていたぶん、悲しみの色が彼女の浴衣姿をいっそう深いものにしている。藍色の空に、口の端の赤が映えていた。夕焼けと夜の、ちょうどまんなかの空だった。
「髪、なんにもしてないけど」
「いや、似合ってるよ」
綺麗とかかわいいとか、そういうことは思っても口に出さなかった。僕たちの関係はかなり不安定なもので成り立っているから、些細なことでも誤った言葉を口にした瞬間、そのバランスが崩れてしまうような気がした。
「よかった」
ベランダに紬を招き、一緒に遠くの空を眺める。弾けるように次々とちいさな花火が現われ、しおれる間もなく新たな花火が咲き続けていた。花火大会はすでに最終局面を迎えているようだった。本当だったらもっとこうして花火を眺めていたかった。隣から聞こえる感嘆の声を聞いたらそう思わずにはいられなかった。
このまま紬の弱い部分を明確に捉えてしまえば、今度こそ迷いなく紬の自殺を止めようとしてしまうと思った。
「どうしようか、今日」
「……帰りたく、ない」
花火が消えた空には煙が燻っていた。皮肉ではなくて、僕は、たしかにその光景が天の川のように見えていた。「泊まってく?」正面を向いたまま訊く。視界の端で、紬がちいさく頷いている。いまのはずるい言い方だったな、と思った。街灯の光に照らされた彼女の瞳から、かたちのない悲しみが滴り落ちているような気がする。
日常的に憂鬱に浸る癖があるから、僕は情けなくて、どうしようもなかった。消えるべきは彼女ではなく、僕自身だと思った。悲しみに心を浸けて生きているから上手に前を向くことができない。受動的な悲しみのほうがずっと心を重くする。
花火の音の隙間に、小さく息を吸い込む音がした。立て続けに聞こえてくるせいで、意識が勝手にそちらへ引っ張られていく。そこで僕は、たしかに涙の落ちる音を聞いた。
「紬」
僕が発した言葉から数秒経って、「ん」、作り物っぽい落ち着いた声が返ってきた。
「……紬は本当に死ななくちゃいけないのかな」
花火を眺めたまま、独りで呟くみたいに言ってみる。「うん」、悲しげな声が返ってくる。彼女の自殺を止める言い訳はやっぱり思いつかなかった。
まだ死なないでほしいという思いだけで、それが紬にとっての救いなのかもわからないまま、僕はこの日、彼女の自殺を止めてしまった。
それでも、自分勝手ではあるけど、綺麗な紬の横顔を見て、あのマンションまで走ったことは間違いではなかったような気がした。
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