1-5「もうひとりじゃない」

「お父さんがねえ、家族に関わんなくなってきちゃってさ。お母さん、寂しいんじゃないかな」

「いや、寂しいなら大切にするんじゃないの、普通」

「逆だよ、逆。執着するんだよ、度を超えて」


 彼女のリュックから、先ほど買ったばかりのロープが覗いていた。なんかね、自殺の道具と長い時間過ごすと、死ぬときに愛着が湧きやすいんだって。まだ多くの項目が残されているにもかかわらず、早い段階でロープを購入した理由について彼女はそう語っていた。


 彼女の表情はまだ見えなかったし、声は最初からずっと明るいままだった。それなのになぜか、彼女が悲しい顔をしているような気がしてならなかった。「あとは想像にお任せします」、小声で言葉を追加したころになってようやく見えた彼女の顔には、いつもどおり得意げな笑みが浮かんでいた。


「……自殺を望んでることはなんとなくわかったよ」

「理解してくれて嬉しいなあ」

「理解したわけじゃない。そういう人もいるんだなって認識しただけ。てか、誰かに相談しないの? 先生とか」

「みんな『早まらないで』って言うだけだから。大人は信じられないよ」


 僕だって希死念慮というものを理解できたわけではない。その立場にいないから言えることかもしれないが、僕はやはり死にたいなんて思わなかった。耳にすることはあるけど、そういう家族のかたちがあることをこうして身近に感じることなんて滅多にない。僕には到底想像がつかなかった。


「唐突に、お寿司が食べたくなったなあ」


 あっけからんとした顔でどうでもいいことを言うから、僕は彼女が最初からそういう表情をしていたと思い込むことにした。そうしなければ瀬川紬という人間を見失ってしまいそうだった。「水族館でお寿司の話をするなってつっこんでよ」と口を尖らせているから、「水族館でお寿司の話をするな」と返してやった。


 順路に沿って歩いていくと、次はクラゲの展示がされているようだった。穏やかなBGMのなかで、大量のクラゲがゆらゆらと水槽を漂っている。クラゲが好きという人をたまに見かけるが、たしかにこの光景は圧巻だ。映画のスクリーンを思わせるパノラマ水槽からは、油断すれば魂ごと引きずり込まれてしまいそうな迫力が伝わってくる。


 静謐で穏やかな空間に浸っていると、次第に心が浄化されていくような気になる。しかし、不覚にも、その光を受けて一緒に輝く彼女を綺麗だと思ってしまった。


 さまざまなクラゲが展示されているのをぼうっと眺めながら足を進めていくと、突然、彼女が円筒状の水槽の前でぴたりと停止した。「ねえ、見て」、咳払いのあとにしっとりとした声がして、彼女の指が正面の水槽へ向けられる。その細い人差し指の先で、黒色をしたクラゲが一匹、他の白いクラゲに紛れるようにして泳いでいた。


「馴染んでいるように見えて、本当はひとりぼっち。私と一緒。だから私は水族館が好き。死んでもいいよって認められているみたい」


 静かで、達観したみたいな声が優しく鼓膜にしみこんでくる。しかし僕は、彼女が笑いを堪えていることを早くから見抜いていた。わざと冷めた視線を送ってやると、堪えきれなくなったのか、今度は爆発したように笑い始めた。


「乗ってよ。恥ずかしいじゃん」


 彼女が不服そうに頬を膨らませているその横で、黒いクラゲの元へ唯一水色をしたクラゲがゆっくりと近づいていった。その光景が、孤独のクラゲを助けようとしているみたいに見えてしまったのは、おそらくさきほどの彼女の言葉がまだ心にこびりついているからだった。冗談めいた言葉の裏側に、想像もつかないほどの悲しみが宿っているような気がした。


 じゃあ、いま寄ってきたクラゲは僕みたいだね。これでもう君はひとりじゃない。頭にそんな言葉が浮かんでくる。しかしこんな言葉が許されるのは、映画の世界だけだ。


「……じゃあ、その水色のクラゲは僕みたいだね」


 だから、見当違いの勇気を出してしまったのは僕が愚かだったからと言うしかなかった。流石に照れくさいので、「もう君はひとりじゃない」という言葉はひそかに飲み込んでおく。それでも彼女はその言葉がツボに嵌まったらしく、さっきと同じように吹きだすみたいにして笑った。彼女の茶番に乗ってやったとは言え、つくりものの言葉でも恥ずかしいものは恥ずかしい。


「そんなこと言う人、映画以外で初めて見た」


 彼女は数十秒かけてようやく笑いを収めたあと、今度は得意げな笑顔で僕の目をじっと見つめた。彼女の笑いがあと数秒長ければ、このまま水槽に沈めていたかもしれない。


「うん、うん。じゃあ、これで私はひとりじゃないね」


 それでも弾んだ声で綺麗な笑顔を浮かべていたから、少しは言ってよかったと思えたし、水槽に沈めなかった自分を褒めてやりたかった。


 彼女が何に対してもポジティブだという考えはどうやら間違っていたらしい。日常生活における事柄もそうだし、彼女がうじうじしている姿を見たことがない。それは僕が彼女と関わらなかったことが原因かもしれないが、やっぱり瀬川紬という人間が自殺するほど思い詰めている姿は全く想像が付かなかった。


 それでも一日を瀬川紬と過ごしてみて、悲しみの片鱗にほんの少しでも触れられた気がした。人としての輪郭をたしかにこの目に映していた。


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