第2章『メリーバッドエンドの加護。』

2-1「事故に遭っちゃったみたい」

 気がつくと小学校の校庭に座っていた。周囲には下校の準備を終えた全校児童が集まっていて、それが視界に映ったとき、すぐに引き渡し訓練の最中だったことを思いだした。


 校庭にいる誰もが親の迎えを楽しみに待っているようだった。彼らの会話にはまるで知らない言語が使われているかのようで、その内容を上手く聞き取ることはできない。ひとり、またひとりと迎えが来るたびに景色が薄くなっていく。意識が少しずつ、上昇していく。


 僕を除いた最後の一人が連れて行かれると、辺りから音の振動がすっかり消え去ってしまった。静まりかえった空間にはなぜか、口がストローのような形の魚が泳いでいた。


 空を見上げた拍子に、砂利の地面がほんの少し沈み込む。どうせ僕に迎えは来ない。地面には母親の診断書が落ちていた。「うつ病」の殴り書きされたみたいな文字が、じんわりと頭のなかにしみこんでくる。


「詩摘くんのご両親、事故に遭っちゃったみたいなの」


 知らない大人の言葉を聞いて、あ、自分のせいで死んだと思った。あるとき二人がアルコール漬けになってから、なんとなくそうなる気がしていた。「うちでは面倒見られないよ」「無理無理」「施設に預けちゃえば」という声たちの、冷ややかで重たい震動が腹の底に溜まり、臓器の一部みたいに激しく痛んでいる。


 誰も僕を見ようとしなかった。だから他人の言葉を心の外側だけで聞くことにしていたし、誰かを心の内側で大切にするようなこともしなかった。これまでちゃんと生きてこられたのだから、これから大切な人なんかいなくても問題はない。


「詩摘くんを迎えに来ました」


 突然、透き通るような声がした。その少女はなぜか制服を着ていた。逆光になって顔はよく見えなかったが、なぜか、艶のあるロングの黒髪に見覚えがあった。彼女は真っ直ぐ僕の元までやってくると、手を取り、「行こうか」と言った。僕はその声を、鼓膜よりもっと深い部分でたしかに聞いた。


 年齢を重ねるにつれて、一般的に親との関わり具合のボーダーラインが下がっていく。それを越えて親に執着していることを馬鹿にする人がいるけど、それを口にできるのは親子の関係に成功した人だけなんだと思う。


 彼女に手を引かれるまま細い道を歩き続けた。いつの間にかアスファルトの舗装はなくなり、地面いっぱいにコンクリートが広がっていた。空にはやっぱりサギフエの大群が浮かんでいた。


 そのうち一匹が降りてきたころ、彼女はしゃがんで僕に視線を合わせると、「私はここで死ぬから」と言った。僕たちはいつの間にかビルの屋上にいた。夕焼けが綺麗だった。彼女がビルから飛び降りるとき、その目に涙が浮かんでいるように見えた。


 * * * * *


 目覚めは最悪だった。まずは子供のころの夢を見たという点。いまさら当時のことを思いだしたのはおそらく紬と家族の話をしたからだ。


 そして二つ目、紬の夢を見てしまったという点。休日に一度外出しただけなのに、夢に出てくるほど彼女を心の中心に近づけてしまったなんて情けない。所詮他人は他人だ。彼女の問題を僕がどうにかできるわけではない。


 それから最後に、彼女の泣き顔が頭から離れないという点。夢なんだし、彼女の泣き顔なんて見たことがないのだから、そこまでリアルに再現しなくたっていいじゃないか。いざというときにあの表情を思いだしてしまったらどうするんだ。自殺するのは勝手だが、夢のなかだとしても人の前で飛び降りるのはやめてほしい。


 それでもなんとなく死んでしまったような気になって、一応、紬に何かメッセージを送ってやろうと思った。シーツに片手を這わせ、枕元の携帯を手に取る。しかしトーク画面を開いてみたところで何を送ったらいいかわからず、考えに考えた結果、『生きてる?』という意味のわからない文章になってしまった。


 二度寝をしようと思い、携帯を枕元へ放り投げる。目を閉じて身体の力を抜き、それからポジティブなイメージを頭に浮かべた。いい夢を見るには睡眠前の精神状態を整えておく必要がある。


 ポジティブなイメージ。いや、癒しの効果があるもののほうがいいかもしれない。クラゲ、水族館、瀬川紬、自殺。連想ゲームをしているみたいに、脳が勝手に暗いほうへと足を進めていく。いつの間にか、また僕はスマートフォンへ手を伸ばしてしまっていた。画面を確認し、再び携帯を元の位置に放置する。紬からの返信は来ていなかった。


 返信を確認してはまた放り投げるを繰り返しているうちに、すっかり目が朝日に慣れてしまった。たまには早くから行動してみるのがいいのかもしれない。


 ベッドを這い出て、部屋の外のもわっとした空気を堪能し、洗面所へ向かう。洗顔と歯磨きを終えるころには珍しく腹が減り始めていたから、買い溜めしていた冷凍のパスタを電子レンジに放り込んだ。何ワットで何分みたいな記載がされているものの、何食も消費するうちにメジャーな冷凍食品の温め時間はすべて覚えてしまった。


 パスタが完成しても、やっぱり彼女からの返信が来ることはなかった。なるほど、もしかしたらすでに自殺してしまったのかもしれない。家族の運に恵まれなかった者同士、仲良くできそうな気がしていたから残念だ。葬式くらいは行ってやろう。


 いつもより準備に時間をかけたせいか、早く起きたのにもかかわらず家を出る時間は普段と変わらなかった。エレベーターで一階へくだり、駐輪場へ足を進めていく。運よく信号に引っかからなかったおかげで、ペダルを踏み始めてからわずか十数分で高校の輪郭が見えてきた。


 校門をくぐり、自転車を停め、昇降口を目指す。自転車の鍵を取った記憶がないのに右手にはちゃんと鍵があるから不思議だ。面倒なことは全部こうやって無意識下でできればいいのにと思う。


 廊下を歩いているとき、「よう、詩摘」と後ろから低い声が聞こえてきた。その声から挨拶の主、それから自分に向けられた挨拶だということに気づいたので、「うん」、振り返ることなく返事をする。前へ回ってきて不満そうな顔をしているのは、予想どおりクラスの担任だった。


「飯、ちゃんと食ってんの?」

「別に」

「今度一緒にメシでも食いに行こうか。奢ってやるよ」

「いいよ、別に」


 いちいち保護者面しないでくれ。そう言おうとして流石にやめておいた。彼はクラスの担任であり、一応僕の親戚でもある。


 たしかに、幼いころは懐いていたと言って間違いはないのかもしれない。しかし僕はもう大人だ。彼はいまも僕が子供であると勘違いしているのか、学校でもお構いなく話しかけてくることがある。僕の未成年後見人になってからずっとこの調子だ。


「あのさ。龍介りゅうすけは学校で話しかけてきすぎ。同級生にバレたくないって言ってんじゃん」

「詩摘」

「何」

「学校では先生と呼べ」

「……はあ?」


 龍介との血縁が他の生徒たちに知られていないのは、もちろん、学校における僕の存在感が薄いことが原因だ。そこそこ人気のある龍介との関係が知られれば、僕の平穏な学校生活に支障が出る。学校で彼と話すようなことはできるだけ避けたい。


 僕を引き取ってくれた祖母が他界してから、高校の近くで一人暮らしをしていた。生活費は祖母が遺してくれた貯金に支えられている。アルバイトを始める決心はなかなかつかない。


 授業を受けて、休み時間は小説を読み、昼休みには屋上で昼食を摂った。メッセージを見なかっただけなのかそれとも黄泉の世界から復活してきたのか、紬は暇さえあればクラスメイト談笑していた。いつもと変わらない一日だった。


 僕がこの日初めて紬と言葉を交したのは放課後を迎えてからだった。

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