2-2「黒毛和牛ハンバーグのピザ」
ホームルームが終わって二時間が経ったころ、読み終わった小説を返却しようと思い、誰もいないであろう図書室へ向かうことにした。テスト週間に勉強の場として使われることはあるものの、四階の端という位置の関係もあり、普段から積極的に使う生徒は決して多くない。人がいるときのほうが珍しいくらいだ。
時刻は午後六時、そもそもこの時間まで学校で本を読むような物好きは僕くらいしかいない。
僕は放課後の誰もいない図書室が好きだった。司書の先生も職員室でお茶しながら他の業務をしていることが多いし、ほぼ貸し切り状態で使用することができる。
しかし残念ながら、この日の図書室にはひとつだけ人影があった。なるべく音を立てないよう、返却ボックスへ本を滑らせる。今日はもう帰ろうか。そんなことを考えながら扉に手を掛けたころ、僕はようやく先駆者の正体が瀬川紬であることに気づいた。
「……死んだのかと思ってた。返信なかったから」
椅子に座って携帯を眺めていた彼女は勢いよくこちらを振り返ると、「いるなら言ってよ」、やけに間延びした声で言った。あまりに素早く首を動かすものだから、骨が折れてしまったのではないかと余計な心配をしてしまった。
「心配しなくても一年後には死んでるよ」
「全部やるんじゃないの? ノートの項目」
「うん。二年生最後の日に自殺するから、それまでに終わらせるの」
「あ、そうなんだ」
返事の始めに付いた「あ」は、なんとも言えない気まずさのような性質を帯びていた。どうやら僕は勘違いしていたらしい。紬は「自殺するまでにしたい100のこと」をすべて終わらせてから首を吊るのだと思っていた。期限があったなんて聞かされていない。
二年生最後の日、次の三月三十一日。残り、九ヶ月程度。彼女の自殺が一気に現実味を帯びてきた。彼女から視線を外し、リュックサックを背負い直す。
「……で、何してんの。いつも図書室なんか来ないじゃん」
「時間稼ぎ。ほら、座って座って」
紬はそう言うと、隣の椅子を引き、座板をとんとんと叩いた。促されるまま近づき、隣ではなく正面に腰掛ける。
何の時間を稼いでいるのだろうか。僕がそれを質問するよりも早く、紬が勢いよく手を挙げた。訳がわからず首を傾げていると、夕日と呼ぶにはまだ早すぎる太陽が照らす図書室に、「はいっ」、紬の威勢のいい声が響く。「はい」僕が指を差してやると、彼女は満足そうに笑った。
「詩摘くんの好きなピザはなに?」
「質問が限定的すぎる。マルゲリータくらいしか知らない」
「私はね、モッツァレラと海老マヨと燻製ベーコンのピザが好き」
「そんなのなんでもアリじゃん。だったら僕も高級黒毛和牛ハンバーグのピザが好きだよ」
「美味しくなさそう」
「正直それは僕も思った」
紬はいつもの得意げな笑い方ではなく、もっと普通の女の子みたいに、胸の内側で堪えるように笑った。彼女の笑い声が収まったあと、一瞬、図書室が静まりかえる。その沈黙の隙間に雨の音が聞こえて、僕はそのとき初めて夕立がやってきていたことに気づいた。
外は明るいままだし、すぐに晴れるだろう。
「三島由紀夫? 紬って読むんだ、そういう難しそうな本」
机には一冊、文庫本が置かれていた。カバーが取り払われて裸になった表紙には図書室特有の黄色い変色が覗える。
「難しくてよくわからなかったよ」
「え、なんで読んでんの」
「『純文学的な小説を読んでみる』って項目、リストに入ってるから」
図書室のカーテンは、黄色とも橙ともいない、微妙な色をしていた。そのカーテンをスクリーンに、大粒の雨が影になって映っている。どこかで携帯が鳴っていた。確認しようと思い、机に置いていた手をポケットへ伸ばす。
「あ」
取りだしたスマートフォンは手を滑り、音を立てて床に転がった。軽く身を屈め、画面を確認する。僕の携帯は沈黙していた。鳴っているのは紬の携帯だった。
とりあえず携帯を拾おうと机の下に潜ったとき、僕は思わず、スマートフォンへ伸ばした手をぴたりと止めてしまった。目の前にある紬の脚、太股の辺りに濃い青の痣が広がっていた。
「どう、したの、それ」
疑問を吐きだす前からその正体の予想がついていた。紬はほんの少しめくれていたスカートを直したあと、「えっち」、下を覗き込んでそう言った。「ごめん」、返事をしてから慌てて視線を逸らす。机の下から這い出たとき、ちょうど紬がバッグを探っているところだった。
彼女が取りだしたスマートフォンは、案の定、誰かからの着信を知らせているようだった。ちいさな振動は雨音をかき消して、押し上げるように鼓膜の奥へと入り込んでくる。紬は画面を一瞥したあと、そのまま携帯をバッグのなかに押し込んだ。
「出なくていいの?」
「ダメだよ」
だったら。そう言いかけてやめる。カーテンの隙間から見える空は、晴れていくどころかどんどん明るさを失っていった。季節は七月、時刻はまだ午後六時半だから、それが日没による暗転でないことは明白だった。もしかしたら今日はもう止まないのかもしれない。
「詩摘くんはハンバーグ、好きなの?」
バッグのなかの籠もったような振動音が止んだころ、紬はいつもの得意げな笑顔でそう言った。着信の相手は彼女の母親だろうか。そんなことを考えていたせいで、「まあ」、返答への意識配分が一気に低くなる。
「この前水族館行ったときにおすすめの店、紹介しておけばよかった。あの近くに美味しいハンバーグのお店があるんだ」
「一人で行く勇気があると思う? そこを紹介されたとして」
「じゃあ一緒に行こうよ」
「君はノートの項目をするのに忙しいでしょ」
「うーん」
夢のなかとか寝起きとか、意識がぼんやりしているときだったから彼女の悲しそうな表情に取り乱してしまったけど、正気のときに考えてみれば彼女の泣いている姿などまるで想像がつかない。それなのにときどきこうして等身大の悲しみを見せつけてくるから、僕はいつまで経っても瀬川紬という人間を理解できそうになかった。
「ねえ」
「なに」
「このまま一緒に死んじゃおうよ」
また、籠もったような振動音が聞こえた。どう考えても不自然な間をおいて僕の口から出てきたのは、「え」の一文字だけだった。何も気の利いたことを返せなかった。
「冗談だよ」
夜と変わらないくらい薄暗くなってきた図書室で、紬が妖しく微笑んでいる。本心で言っているように思ってしまったのは、まだ夢の気配に当てられているせいだった。これまでの紬とは違う人物像が、ゆっくり輪郭を成そうとしている。雨の音に紛れて携帯が鳴っている。
「帰りたくないなあ」
「僕が出ようか」
「出て、どうするの?」
「説得するとか」
「大丈夫だよ」
紬のバッグが開放され、それまで籠もっていた振動音が一気に増幅する。彼女の指はすこしの間空中を彷徨ったあと、ゆっくりと応答ボタンの上に着地した。
照明を点けなければ不便な暗さになってきていた。振動音がなくなったせいか、今度は雨の砕けて死ぬ音が明確になる。ぽたっ、ぽたっ。それぞれの音を認識できるのに、さああ……と一つの音が長時間続いているみたいに聞こえるのはなぜなんだろうと思った。
図書室はひとりのときよりもずっと静まりかえっていた。衣擦れと雨音が支配する空間に、彼女の淡々とした声が浮かんでいる。教室の喧騒の反対側にあるのは静寂ではなく、彼女の悲しい声色が空気に溶け込んでいくこの状況なのではないだろうか。
僕は、遠くの棚に並ぶ、窓から隠れて闇のようになった本たちを眺めていた。
「友達と一緒にいるって言ったら、『迎えにいく』だって」
いつの間にか紬は通話を終えていたようだった。顔を上げた先で、彼女はいつもの明るい笑顔を浮かべていた。
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