2-3「いいお母さんだね」

 昇降口で雨宿りをしていると、紬の迎えはすぐにやってきた。校門を通過した軽自動車が、僕たちの前でぴたりと停止する。


「ごめんなさいね。うちの子に付き合ってもらっちゃって。よかったら乗っていって」

「いえ、そんな」


 付いていかなければ紬が車内で怒られることは目に見えているから、ほどよい遠慮を挟みつつ、お礼を言って後部座席に乗り込んだ。


 とは言っても実際は、嫌なことを先延ばしにしているに過ぎなかった。目先の利益のために近い未来を犠牲にする。自分はそんな選択をしてばかりだった。目の前のことから逃げ続けている。そこまで考えて、思考を放棄することにした。


 この状況の打開策を考えなければならなかった。すみません、彼女のことを引き留めたのは僕なんです。そう言おうとしてやめた。これから怒られることを危惧しているみたいだ。「家のことを話した」と余計に怒られるかもしれない。彼女を誘って雨宿りをしていました、というのはどうだろうか。いや、正直なところいつから雨が降っていたかわからない。


 ホームルームが終了したときには降っていなかったから、「なんで早く帰ってこなかった」と返されれば逃げ道がなくなってしまう。


「すみません、彼女のことを引き留めたのはこちらなのに、僕まで送ってもらっちゃって」


 きっとこれが正しい。僕が考えられる最善だった。


「いいのよ、全然」


 バックミラー越しに紬の母親と目が合った。目を逸らすべきかどうか迷っていると、母親のほうがこちらに微笑みかけてきた。強張った表情筋を動かし、なんとか自分も笑顔をつくる。彼女の微笑みに優しさのようなものを感じて、本当にこの人が、と思った。


「うちの子と仲良くしてくれてありがとうね」

「あ、いえ、そんな。こっちこそ、ありがたいです」

「家はこの辺り?」

「はい、そこのマンションです」


 紬の母親に見えるよう、前へ身を乗りだして自宅マンションへ指を向ける。「はいはい」、彼女の明るい返事のあと、車はゆっくりと路肩に停まった。


「ありがとうございます。助かりました」

「いいのよ。ほら、送っておいで」


 車の扉に手を掛けたとき、それまで黙っていた彼女が「……うん」と慌てたように口を開いた。彼女の母親にもう一度頭を下げ、紬と一緒にマンションのほうへ歩く。


「……大丈夫?」


 まだ車からの距離は近かったため、小声で、それでいて彼女に聞こえるような声量で尋ねた。


「余裕」

「……いいお母さんだね」


 今度は母親に聞こえるくらいの声量でそう言っておいた。紬が僕に家の事情を話していないことをアピールするためだった。それから、機嫌を取ることによって彼女が怒られる可能性を少しでも減らそうと思った。


 紬は僕の狙いに気づいていただろうけど、眉尻を下げて、困ったように笑った。雨、重たく地面を打つ振動が足の先に蓄積されていく。


 彼女の踏んだアスファルトが、ローファーのかたちに濡れていた。等身大の悲しみがそこに溜まっていた。僕は、水族館のときとは違う、リアルタイムの憂鬱をこの目に映していた。


「またね」、僕に背を向けて去っていく彼女に「何かあったら連絡して」と声をかけた。彼女は一度振り返ってちいさく微笑んだあと、すぐに歩き始めてしまった。


 余裕。余裕、と言った。いつもだったら「何が大丈夫なの?」と訊き返すのに。僕が危惧していたことがそのまま彼女の心配ごとだった。


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