1-4「ストローのような口の魚」

 水族館は建物の屋上階にあった。エレベーターを出て、チケットカウンターへ足を進める。


「付き合わせたのは私だから、詩摘くんのぶんも払うよ」

「その自覚はあったんだ。いいよ、自分で払うから」


 一応僕にも男としてのプライドがある。しかしそれを口にしたら「性差別」とつっこまれるだろうから、そこからは軽く断る程度に留めておいた。


 スタッフの誘導に従い、水族館の入場ゲートへ足を運ぶ。この日は土曜日だからなのか、子連れの家族らしき組み合わせがコピーペーストしたみたいにそこら中を歩いていた。


 水族館は子供を連れてくる場所という印象が強かったが、意外にも多くの男女が手を繋いだり腕を組んだりして歩いている。「その魚綺麗だね」「君のほうが綺麗だよ」などというやりとりが行われる様を想像し、吐き気がしてきた。


 まず目に入ったのは、入口からすぐの通路に並ぶ小型の水槽たちだった。それぞれの水槽には独特な形をした魚が泳いでいて、それに群がるように人だかりができている。


 手を繋いでいる親子を見て、唐突に、先ほど飲み込んだ質問を思いだした。どうせ、近いうちに彼女は死ぬかもしれないのだ。訊いてみて損はないだろう。


「ねえ、『うちの親はそんなこと言わない』って、どっちの意味?」

「どっち、って?」

「僕に責任を押し付けるようない人じゃないって意味なのか、それとも紬が――」


 はっと我に返り、慌てて言葉を止めた。それとも紬が死んでも何も思わないような人なのか。もしそうだったとしたら、彼女の傷に塩を塗るような質問をしたことになる。しかし、僕の後悔を踏みにじるように、彼女は吹きだすようにして笑った。


「急に黙ったと思ったら、そんなこと考えてたの?」

「まあ」


 目の前の小型水槽を見上げていた子供が、駆けだした拍子に勢いよく転倒してしまった。それを見た母親らしき女性が慌てたように駆け寄っていく。「大丈夫」、女性は泣き喚く子供の背をさすると、早足でどこかへ消えてしまった。周りの客に気を遣ったのだろう。


「ふふっ、詩摘くん、おもしろいなあ」


 先へ進もうにも、前の小水槽で列が滞っているようだった。突然、そこに並んでいた女子高校生らしき二人から鼓膜を刺すような笑い声が上がる。音の、胃の辺りに煎りつくような感覚がじんわりと全身へ広がっていった。音が鼓膜にくっついて離れない。


 瀬川紬本人がその問題を軽いものとして捉えていることにも、彼女があの質問を気にしていなかったことに安心している自分にも、すこし腹が立った。


「……ネタばらしをするには、ちょっと遅くない?」

「なんの?」

「自殺するっていう冗談の」


 その瞬間、彼女の表情が暗闇に凍り付いたように見えた。咄嗟に、逃げるみたいに視線を外す。しかしもう一度視線を戻したとき、そこにはいつもと変わらない得意げな笑顔が浮かんでいた。


 シャツに染みついた汗が空調に冷やされ、背中に直接氷を当てられているようになっていた。寒気というよりもっと抽象的な、寂しさみたいなものが背骨に貼り付いている。


「じゃあ、考えてみて。私は自分の苗字が嫌いだと言った」

「言った」

「私は『親は君を責めない』と言い、それに対して君は二つの可能性を提示した」

「提示した」

「ここで追加情報。私はさっき、あそこで子供が転んだとき、それに親が駆けつけるのを見て非常に腹が立った」


 彼女はそう言うと、ぴんと立てた指先を、さきほど通り過ぎた小型水槽のほうへ向けた。慌てて周囲を見回してみたが、その親子の姿はどこにも見当たらない。「ここから導きだされる答えは?」、物理教師の真似をしているのか、彼女は妙にドスのきいた声で黒板を叩く仕草をした。


「……親との関係が上手くいかないから、死にたい?」


 親との関係が上手くいかない。早くに親を亡くしていた僕には文面以上の内容を理解することができなかった。感覚ではなく、情報として脳の端っこに収納されているだけだ。


「正解! と言いたいところだけど、少し違うかな」

「違う?」


 んんっ。彼女はちいさく咳払いをすると、導かれるように近くの中型水槽へ足を進めていった。回答を受け取るため、なんとなくあとを追う。彼女が水槽へ顔を近づけると光の大部分が遮断され、その表情はぴったり暗闇に紛れ込んでしまった。


「詩摘くんは、死にたいって思ったことある?」

「ない」


 水槽の上のほうを、ストローのような口をした魚が漂っていた。水槽が暗いせいで、相変わらず彼女の表情は見えない。なんとなく水槽の上部を見上げたとき、そこに設置されたプレートからその魚の名前が「サギフエ」であることがわかった。水底から落ち葉が浮いている様子を見上げれば、おそらくこの光景に重なるはずだ。


「一度死にたいって思った人はね、たぶん、ちいさなできごとが巡り巡って致命傷になるんだよ。つらいことを誰にも相談できないとか、家に帰るのが憂鬱とか、次のテストの結果が怖いとか」


 さっき彼女が口にしたことのどこからこの答えが導きだされるのか疑問に思ったが、それと同時に、教科書を音読するように死を語る彼女を見て異様だと思った。落ち葉のような魚が一匹彼女の前に降りてきて、またすぐに上昇していった。


「それが理由?」

「そう。私は母親から暴力を受けてます。だから自殺したいのです」


 選手宣誓、みたいに明るい声色で彼女はそう言った。僕はまた慌てて周囲を確認するなどを繰り返している。いくら見回してみても、彼女の言葉に反応した様子の観客はどこにも見られなかった。


 自殺、その言葉を聞くたびに両親の顔が浮かぶ。二人は僕が小学生のときに交通事故で死んだ。その記憶に引きずられて、自分に生きる価値がないことを再認識させられる。だれかを苦しめてまで生きる必要がどこにあるのだろう。

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