4-5「ノートの中身」

 風呂を上がって部屋に戻っても、案の定紬の姿はなかった。散らばったものたちを軽くまとめ、気持ちばかりの荷物整理を行っておく。脱いだ服たちをバッグにしまっていると、紬のリュックサックから生成り色のノートが覗いているのが見えた。


 ふと、電車のなかで見た項目のことが頭に浮かんだ。いや、観光の最中もそれが消えることはなかった。入口のほうを見てまだ彼女が帰ってこないことを確認し、リュックからノートを引っ張りだす。


 序盤のページには、『大きいパフェを食べる』『お子様ランチを食べる』など、僕と出会う前にこなしたであろう項目が書いてあった。初期の内容は誰もが子供のころに経験していたであろうものばかりで、彼女のこれまでの人生を想像し、胸の奥が締め付けられるように痛む。


『水族館に行く』『プールに行く』『手持ち花火をする』、次第に覚えのある項目を目にするようになった。ページを進めていくにつれて、心臓の底に煎りつくような焦りが募っていく。


 まだ自殺をするまでに半年以上はあるはずなのに、日記が付けられた項目はもうすでにノートの半分ほどを占めていた。後ろから黒い波がやってきて、畳についている足から頭のてっぺんまでじわじわと上昇していく。急がなければ、彼女は自殺を早めてしまうかもしれない。


 僕は達成していない項目を把握するため、携帯を取りだし、ノートの紙面を写真に収めておいた。それからもう一度ノートへ視線を落とし、先の項目を確認する。最後のほうのページには『遠くを旅して、知らない街で自殺する』という、彼女自身が描いた結末について綴られていた。その他の項目から照らし合わせてみると、紬はどうやら最期に遠出して、その先で首を吊るつもりらしかった。


 どの項目を、どうやって阻止すればいいのだろうか。そんなことを考えていたとき、今朝見たものと同じ項目が目に留まった。


「『恋人を作る』『恋人としかできないことをする』……」


 紬は昼間、珍しく恋愛に関する話題を口にしていた。彼女はどういうつもりで僕にその話を振ったのだろう。考えが纏まる前に、ノートを読み進めていく。ふと、僕は、このノートが持つ違和感に気づいた。いや、元々それは、おかしな部分ではあった。


『首を吊って死ぬ』という最後の項目。彼女は「ノートの項目をこなしてから死ぬ」と言った。しかし、これは、首を吊って死んだあとでなければ達成し得ない。紬の意識下でこなすことはできない内容だった。


 いや、死ぬことで達成するという彼女なりの解釈なのかもしれないが、僕の違和感をより確実にしたのは、『首を吊って死ぬ』という文章の下、注意しなければ見逃してしまうほど目立たない文字の痕だった。


 彼女は擦って消せるボールペンを使っていた。このインクは冷やせば消した文字が浮かび上がると聞いたことがある。今から冷凍庫に入れて冷やすのは現実的でない。光の加減で、微かなこの文字の痕を読み解くことはできないだろうか。彼女が設定した、本来の、項目。


「……好、き、……な?――」

「なにしてるの?」


 一瞬、僕の心臓はたしかに止まっていた。慌ててノートを戻したが、紬の荷物を探っていたという事実は変わらず、次の瞬間僕は急いでそのことに対する言い訳を考えていた。ノートに熱中しすぎていたのかそれとも紬が音を立てないように入ってきたのか、今となってはもう判断することができない。


「下着でも探ってた? 残念、ここにあるよ」


 紬はいつもの得意げな笑みで肩から下がるトートバッグを指している。結局、役に立ちそうな言い訳は思いつかなかった。


「いや、ごめん、やましい気持ちはなくてっ」

「どうせノートでも見てたんでしょ。ほら、早くご飯行こうよ」


 頭のなかに生まれた質の悪い言い訳を見送ったあと、僕はちいさく頷くことしかできなかった。僕がノートを盗み見ていたことを咎める気はなかったのか、彼女はトートバッグを傍らに置いたあと、「はやくはやく」と平然とした顔で言った。


 夕食は懐石料理だった。あとで酒を飲むなんて言っていたのに、食前酒として梅酒が出てきたことに驚いてしまった。もしかしたら紬は、予約時に年齢を詐称していたのかもしれない。たしかに部屋で酒を飲んでいたことが発覚すれば、旅館側が警察に通報してしまう可能性がある。そうなれば当然保護者に連絡が行くだろうから、その場合紬の身は危険に曝されるだろう。そう考えると賢明な嘘だと言える。


 梅酒を飲み干すと喉が熱くなり、鋭い空気と梅の甘い香りが一気に鼻から抜けていった。紬はアルコールに弱いのか、早くも頬を赤く染めている。将来が心配だ。


 次々と机に並べられる料理たちはどれも絶品で、僕にはもったいないほどだった。では誰に勧めたいかと考えたときに真っ先に浮かぶのは紬の顔なので、こうして二人で美味しいものを共有できているこの瞬間は、僕が思っている以上にかけがえのないものだったのかもしれない。


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