4-4「いい匂い」
美術館や街の散策を楽しんでいると、送迎バスの時間はすぐにやってきてしまった。いきなり連れだされた旅行だったが、こうして自然に楽しんでしまっている。しかし、何かが終わるたびに、彼女が死に近づいているという現実が輪郭を濃くしていった。
バスが走りだしたころ、疲労が溜まっていたのか、いつの間にか紬は目を閉じてしまっていた。彼女は一体いつからあのスーパーで待っていたのだろう。開店は七時だが、その前から待っていた可能性だってある。親に見つからないよう、日が昇る前に家を出たのかもしれない。紬のスケジュールによるとバスでの移動時間は三〇分程度だから、その間はゆっくり眠らせてあげることにした。
バスが左折した拍子に紬の身体が傾き、僕のほうへ頭を預けるかたちになった。眠りが深かったのか、その体勢になっても彼女が目を開くことはない。
静かな呼吸に合わせて、彼女の肩が軽く上下している。紬の肩はちいさくて、今にも壊れてしまいそうだった。僕には測りきれない、熱の重さ、みたいなものがその肩にはたしかに乗っかっていた。
* * * * *
チェックインを済ませて部屋に足を踏み入れると、畳の乾いた匂いがすうっと鼻を通り抜けていった。一日の疲れが足の先に溜まり、床ごと沈んでしまいそうになっている。
部屋を見回しているとき、ふと、紬と同じ部屋に案内されてしまったことに気づいた。もしかしたら以前僕の家に泊まっていたから、一緒の部屋で寝泊まりすることをあまり気にしていないのかもしれない。確認だけしておこうと振り返ったとき、突然、バタリと紬が地面に倒れてしまった。
「え、だ、大丈夫?」
慌てて紬の元へ駆け寄る。紬は首だけを動かしてこちらを見上げたあと、「つかれた」、薄く目を開いて言った。意図的なものだとしたらびっくりするのでやめてほしい。
「畳、いい匂い。詩摘くんも寝そべってみなよ」
彼女に促されるまま、ゆっくりと地面に寝そべってみる。たしかにいっそう強くなった藺草の香りは心を浄化してくれるようだった。
「……あ」
足をついた地点が悪かったのか、横になって顔を上げたすぐ目の前に紬の顔があった。慌てて顔を背ける直前に紬が不自然に目を逸らすのが見えて、結局、二度見するようなかたちで彼女の顔へ視線が戻る。
いつもなんとなく目にしているが、こうやって間近で見てみると、紬はかなり綺麗な顔立ちをしているのがわかる。長く反り返った睫毛に薄い桃色の唇。それからなめらかな曲線を描く赤い頬。「どう、したの」僕を避けて部屋の隅のほうを向いていた黒目がゆっくりとこちらへ移動する。「え、いや」、急いで紡いだ否定は何に対する否定なのか自分でもよくわからなかった。
「先、お風呂入っちゃおうよ」
「そう、だね」
重たい身体に鞭を打って起き上がり、今朝用意した荷物のなかから着替えを取りだす。バスタオルは洗面台の下に入っていた。
互いに準備を終えて部屋を出たとき、「詩摘くんのほうが帰ってくるの早いだろうから」と言って鍵を手渡された。
「ねえ、あの、同じ部屋なの?」
僕が問いかけると、「あー、たしかに」、紬はやけに軽い声で言った。行き場を失った僕の遠慮がつるりと転倒し、幾何学模様の絨毯の上を転がっている。
「嫌だったら別の部屋、用意してもらおうか?」
「別に、嫌ではないけど。それに別の部屋を取ったらもっと高くなりそうだし。正直こんなに高そうな旅館だと思ってなかったから、そんなにお金も持ってないしさ」
「なら、一緒の部屋でいいね。ちなみにこの旅行でのお金は気にしなくていいから」
当たり前みたいに紬が言うから、僕は慌てて「それは悪いよ」と拒否した。もうすぐ自殺するからお金だけ持ってても仕方がないなんて言うだろうけど、僕に彼女を死なせるつもりはない。自殺をやめることになったら、家族から離れて一人暮らしを始めるという選択もできるはずだ。そのためにはお金を貯めておく必要がある。
「私はもうすぐ自殺するから。使い切らないともったいないでしょ」
彼女は予想どおりの言葉を口にしたあと、赤い暖簾の奥へ消えていってしまった。さすがに追いかけて断りに行くわけにもいかず、僕はなにも返せないまま男湯の暖簾に手をかけた。
紬には逃げられてしまったが、むしろそうしてもらったほうがよかったのかもしれない。あのままでは勢い余って「死なないで欲しい」なんて言葉を吐きだしてしまった可能性がある。
生きるということはどうしようもなく難しい。両親が自殺したのも、きっと生きることの息苦しさを知ったからなのだと思う。
自分が消えてなくなることはこんなにも怖いのに、いくら紬の側にいても、それを凌駕する苦しみを未だに理解できていなかった。きっと、自殺に取り憑かれてしまう人間は遺伝子レベルで最初から決められている。
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