4-3「‘‘バゲット’’リスト」
食事を堪能して店を出たあと、次の目的地へ向け再び電車に乗り込んだ。トンネルに入ると騒音が大きくなるので、その間、自然と会話が疎らになる。トンネルを抜けるたび、紬は花が咲いたみたいに会話を再開した。
旅行というのはもっと活動的なイベントだと思っていたが、どうやら紬は僕と違う捉え方をしているらしい。この旅行の最初の目的地は、絶景スポットとして有名な、とある海岸だった。吊り橋からの景色が圧巻とのことだが、高所というだけで気乗りしない。
「詩摘くんは神社を見るのと自然を観光するの、どっちが好き?」
電車の騒音が鼓膜に纏わりついているなか、正面の席で海を眺めていた紬がゆっくりとこちらを向いた。普段はボックス席に座ることがないから、こうして面と向かって電車に揺られている状況が旅行という雰囲気をより強調している気がする。
「家でゲームしてるほうが好きかな、どちらかといえば」
「『どちらかといえば』っていう言葉の使い方、知ってる?」
彼女はそう言って大きく笑うと、再び視線を窓の外へ移動させてしまった。
言い回しが似ている、と思った。彼女の言葉を反芻するたび、身体の先端がむず痒くなる。誰かと言い回しが似るためには、その人を心の深い場所に取り込んで、真っ直ぐな目で見守るような営みが必要なのではないだろうか。
海岸の最寄り駅はICカードが使えなかったため、駅員に言って運賃の精算をしてもらった。地元にはそういう駅がないので、こういう部分でも自分が非日常にいることを強く実感する。
駅が想像以上に簡素な作りだったり電車の停まる頻度が異様に低かったり、住んでいたら不便かもしれないけど、旅行している状況ではその雰囲気がぐっと高まるのだから不思議だ。
「……僕が恋人を作ったら、紬は一緒にリストをこなす相手がいなくなるでしょ」
自然と会話が途切れたのを見計らい、定食屋で下書き保存していた言葉をなんとか声に変換した。目を丸くした紬から、「いまごろ?」と呆れたような笑いが返ってくる。しばらくして、「まあ、たしかにそうだね」と、文脈に合った回答が聞こえてきた。
僕たちが恋人を作った上で一緒にリストをこなす唯一の方法には触れないでおいた。考えが及んでいないのか気づいた上でそうしているのかはわからないが、紬がそれに言及することはなかった。
「ねえ、自殺したい人がよく死ぬまでにやりたいことのリストを作ったりするじゃん?」
「周りに自殺したい人が君しかいないからわからないけど」
実際に作るという人を紬以外に聞いたことがないし、周りでそう簡単に自殺されても困る。そんな環境で生活したくない。
「死ぬまでにすることリスト、海外だと『バケットリスト』って言うらしいよ」
「バケット? あの固いパン?」
「ちが……ふふっ」
どうやら紬は僕の返答がツボにはまったらしく、交差点を渡って次の信号に差しかかるまで、ずっと噴きだすみたいに笑い続けていた。僕は訳もわからないまま手持ち無沙汰になり、仕方なく空をぼうっと眺める。世界中の白を凝縮したような雲が太陽を隠し、直射日光から逃れた僕の身体が今度は余熱に蝕まれていった。
「違うよ。バケツね。水とか入れる」
「なんでバケツ?」
「直訳で『バケツを蹴る』っていう熟語が、アメリカでは『死ぬ』っていう意味らしいの。首を吊るときに、足場にしていたバケツを蹴るっていう由来ね」
「なんか、生々しくて嫌だな」
「『死ぬ』っていうのが自殺することから来てるのがおもしろいよね。もし私がアメリカに生まれてたら、もっと堂々と自殺できたのかな」
海外の自殺事情はよくわからなかったので、「どうだろうね」と答えておいた。自殺が許容される場所なんて世界に存在するのだろうか。いや、安楽死が認められている国なら自殺することだって許されるかもしれない。
「あ、看板だ。『海岸入口』って書いてある」
紬の指が向くほうへ視線を送る。ひっそりと立つ寂れた看板には彼女が口にしたとおりの文字が綴られていて、矢印が示す先、人がふたり並んで歩ける程度の細い脇道が通っていた。そのすぐ側を小さな川が流れている。脇道に一歩足を踏み入れたとき、周囲の人工的な音が全てせせらぎにかき消されてしまった。地面には見たことのない草が這っていて、それを踏まないよう、一歩だけ足を大きく伸ばしてみる。
「詩摘くん」
「ん?」
僕の真似をしているのか、紬は軽快なステップでツタを避けながら道を進んでいった。滑って川に転落してしまわないか心配だ。
「あの固いパンの名前は『バゲット』だよ」
「いいよ、どっちでも」
紬が馬鹿にしたような笑顔を向けてくるから、やっぱり川に落ちてしまえばいいと思った。突き落としてもきっと事故として片付けてくれるだろう。
次第に道の両脇を飾る木々が高くなっていき、入口の看板が見えなくなってきたころ、ついに枝や葉が僕たちの頭上を覆ってしまうほどになった。その隙間から落ちた日光が地面と僕たちを斑模様に照らし、飽きのこない砂利道を演出しているようだった。
「自然って感じだなあ。ここで死にたいかも」
「まだ残ってるでしょ。バゲットリスト」
「バケットね」
「わざとだよ、いまのは」
さらに奥へ進んでいくと今度は木々の密度が次第に小さくなり、突き当たりに差しかかったころ、葉の天井から漏れてきた激しい光で視界が広がったみたいになった。目を細めて光の量を調節すると、木の向こう側に海と空の境目が見えた。
「吊り橋、あっちだって」
突き当たりに古びた看板が立っていて、そこに貼られた地図を確認したあと、僕たちは案内に従って吊り橋側の道を進んでいった。九月も後半に差しかかったとはいえ、日が直接当たるところはまだ真夏並みに暑い。額の汗をてのひらで拭ったあと、意気揚々と先へ進む紬の背中を追った。
「えっ、高い」
脇道の先には例の吊り橋があって、そのずっと下、砂浜ではなく丸石の海岸が広がっていた。吊り橋の高さは二〇メートルほどだろうか。マンションの七階と同じくらいだ。
「ほら、行こっ」
突然手首が柔らかい感触に包まれて、吊り橋のほうへ引っ張られた僕は、数メートル進んでようやく紬に手首を掴まれていることに気づいた。風のせいなのか、一歩踏みだすたび、頭のなかまで揺れているみたいな感覚になる。その揺れと高い場所に対する恐怖は、吊り橋の中心に差しかかっても消えることはなかった。
「下を見るから怖いんだよ。ほら、綺麗だよ、海」
紬に促され、おそるおそる真下の丸い石たちから顔を上げてみる。
「……綺麗」
空の色は海のせいなのではないかと疑ってしまうくらい、目の前に広がる海は想像以上の青色をしていた。丸めた紙を開いたような水面の所々を日の光が這っていて、波が立つたび、それぞれ隆起した部分の頂点で光が粒状に輝いている。
「泣きそうだなあ、景色が綺麗すぎて」
「泣いたらいいと思う」
背の高い木々と丸石の海岸、それから終わりの見えない海、たしかに圧巻と言える光景だ。ここから紬が飛び降りたがったとしても納得できてしまう。
「私、上手に泣くことができないんだよね。思いっきり泣こうとしても、涙が出てこない」
「本当に泣くべきときには自然に涙が出てくるよ、たぶん」
そうかなー。紬の間延びした声が波の音に飲み込まれていく。丸石の濡れた部分に日光が反射し、水面と一体化しているように見えた。
「なんだか、心が落ち着くね。ここからなら躊躇なく飛び降りれるかも」
「絶対に飛び降りるって言うと思った」
視界の端に満足そうな笑顔が映り、彼女が海のほうへ向き直ったころ、手首から肌の感触がなくなった。もし彼女の自殺を止めることができて、それから僕が高所への恐怖を克服できたら、今度はもっと落ち着いた気持ちでこの景色を眺めたい。
もちろん自殺を止めるなんて言えないから、ただひとこと、「また来ようよ」と口に出しておいた。「どうしようかなー」と返ってきた。
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