4-2「恋人、作らないの?」

 新宿駅で下車すると、時間のせいなのかそれとも都心だからなのか、さきほどの車内からは考えられない数の人間がそこら中を行き交っていた。若い女性が早足でホームの縁を歩いているから、転落してしまうのではないかと見ていて不安になってしまう。


「また、女の人見てる」

「いつも見てるみたいな言い方しないでくれる?」


 僕は新宿駅の構造をよく知らなかったので、紬の先導で特急が待つホームへ向かうことになった。慣れた様子で人混みを歩いていく彼女の背中には、たしかに自分の知らない瀬川紬の影が貼り付いている。特急のホームへはすぐにたどり着いた。


「すごい! 動いた!」


 列車が走りだすと同時に、紬は目を輝かせながら周囲を見回し始めた。さきほどまで得意げな顔で案内してくれた彼女とはまるで別人だ。


 子供みたいだ、と思った。発車から一時間も経たないうちに眠ってしまった紬を見て、その考えはいっそう深くなった。彼女の家庭事情を考えると、子供のころにそういう経験をしてこなかったのかもしれない。


 普通は子供のころの楽しい記憶を軸に、自立したあとの人生に彩りを加えていく。両親からそういう恩恵を受けなかった紬はまだ、軸を形成している段階なのかもしれない。


 同様に、幼いころに両親を失った僕もそういう軸を持っていなかった。ものごとの楽しみ方がよくわからない。しかし紬といるときは心が躍るようだし、もっと何かをしていたいという気持ちになる。受けた苦しみは全然違うだろうけど、僕は、そういうちいさな部分で紬と重なっていることが堪らなく嬉しかった。


「……あ」


 紬のバッグのポケットから、生成り色のノートが覗いていた。彼女が目を閉じていることを確認し、ノートを引っ張りだす。物理、2年2組、瀬川紬。丸っこい文字がじんわり血液にしみこんでくるようだった。


 最初に見たときは、序盤と最後の内容にしか目を通していなかった。そしてその序盤の内容は、日記が加えられている以外、何も変わった部分はない。彼女の様子を窺いながら、その先へページを進めていく。


「え」


 先の項目を見て、つい声が漏れた。


『まもなく――』低い声のアナウンスとともに制動力が働き、僕の身体が紬とは反対の方向へ傾いた。電車がぴたりと停まった拍子に、彼女の身体が僕にもたれかかるかたちになる。急いでノートを閉じ、元あった場所へ差し込んだ。


 ぞろぞろと乗客たちが立ち上がり始めたころ、手元の特急券に視線が落下し、行き先が紬のリストに書いてあった地名だったことに気づいた。無意識に近い場所から、つい溜息が漏れる。


「旅行、嫌だった? いきなり連れだしちゃったもんね」


 いつの間にか起きていたらしい紬が苦笑いするみたいに言うから、「いや、楽しみだよ」、つい貼り付けたような笑顔を返してしまった。「ならよかった」、さきほどより一段階明るい声で紬が笑う。いつから起きていたのか、恐ろしくて訊くことができなかった。


 数時間の揺れを経て電車降りると、車内の薄い冷房で冷え切った身体がぼうっと日光に温められていった。寒さのせいなのかずっと同じ体勢をしていたせいなのか、身体が石化したみたいに凝り固まっている。腕を組んで筋肉を伸ばしているとき、紬が「お尻が痛い」と言った。たしかに、あと一時間でも長ければシートとお尻が癒着していたかもしれない。


「旅行、楽しいなあ」

「ちょうどいま始まったところじゃないの?」

「旅行は電車で移動するところから始まるんだよ、たぶん」

「その移動中ずっと寝てたけど?」


 改札前の時計がちょうど十二時を指していたので、まずはこの近くで昼食を摂ることになった。思い返してみれば朝ごはんを食べる暇がなかったし、それは早朝からスーパーにいた紬も同じだったようだ。


「あ、きょう、金曜日なんだっけ」

「金曜日だと何かあるの?」

「ほら、詩摘くんと出かけるのって大体土日だから」

「ああ、たしかに」


 いままで疑問に思ったことはなかったが、言われてみれば彼女との予定は土日ばかりだ。『カラオケに行く』などの放課後にできそうな項目でも紬は休日に誘ってくる。もしかしたら休日は親の仕事が休みだからあまり家にいたくないのかもしれない。そういう深読みをしてみたが、それを口に出すようなことはしなかった。


 駅から歩くこと五分、紬の提案により、木製の格子扉が番を務める魚介系の定食屋に入ることになった。


 案内された座席でぼうっとメニューを眺めていると、「全部美味しそう」、紬が弾むような声で言った。ドリンクメニューには日本酒の名前らしき漢字がずらりと並んでいて、僕はふと、紬のノートに『お酒を飲んでみる』という項目があったことを思いだした。


 彼女が酒を頼んで通報されることを危惧していたが、結局彼女が注文したのはランチメニューの刺身定食だけだった。


「お酒頼むのかと思った」


 店員が厨房へ消えていくのを確認してから、こっそりと紬に話しかける。彼女は僕の顔をじっと見つめると、「お酒は夜ね」、囁くように言った。未成年の飲酒はそもそも犯罪だし、旅館側に見つかれば通報される可能性もある。でも、不安であると同時にそれが楽しみでもあった。


 大人は酒で何かを忘れたくなることがあると言うけど、僕たち高校生だって強制的に嫌なことから目を背ける必要があると思う。現在進行形で苦しんでいるならなおさらだ。


 彼女を救うのに有効な近道はないだろうか。例えば恋人になって僕が幸せにしてやることで死にたい気持ちを薄れさせるという方法はどうだろう。いや、そもそも恋人というのは互いが好意を抱いていることが前提だ。


「詩摘くんは恋人、作らないの?」


 視線、紬の言葉を受けて無意識に顔を上げた先で、ハイライトの強い瞳とちょうど交わっている。お待たせいたしました、皺の寄った声がして、紬の前に刺身定食が置かれた。


「え、いや、なにが?」


 なんとか紡いだ言葉の先で、彼女が得意げに笑っている。そうこうしているうちに、続けて僕の前に金目鯛の煮付け定食が配膳された。甘辛いタレの香りがふわりと漂ってきて、「ごゆっくりどうぞ」という店員の言葉が終わるころには箸を手に取っていた。


「で、どうなの?」

「別に」


 べつに、とは。まだ何か訊きたげな紬に気づかなかったフリをして、弾力のある身に箸を落とし込む。ほろほろと崩れた身の一部を口に運ぶと、柔らかい食感と凝縮された旨味が舌の上を転がり、脳がとろけてしまったような感覚になった。これでは彼女の質問に答えることができないのも仕方がない。


「私はねー」


 まだ僕の様子を窺っていたらしい紬はちいさく笑ったあと、「詩摘くんのそれ、美味しそう」、僕の定食を指して言った。懇願するような視線に当てられて、仕方なく彼女のほうへトレーを滑らせる。紬は箸で控えめに身をつまむと、「わあ、おいしい」と頬を緩ませた。


「『私は』、何?」


 さきほどの言葉の続きが気になり、恍惚とした表情の紬にそう尋ねてみた。次の瞬間、彼女の表情がくるりといつもの得意げな笑顔に変化する。やられた、と思った。


「自分は答えないのに、私には答えさせるの? それで、詩摘くん。恋人、作らないの?」


 悪魔、人でなし、そういう悪口を言ってやろうとしたが、結局僕の口から出てきたのは「作れないだけだよ」というテンプレートどおりの回答だけだった。


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