4-6「お酒の自販機」
食事処からの帰り道、気温を落とした空気が身体を包み込むように絡みついていた。昼間の太陽に引きずられた熱風より、この心地よい風こそが空気の本来の姿なのかもしれない。
「美味しかった。これが最後の晩餐だったらなあ」
「じゃあ、死ぬ間際にも美味しいものを食べようよ」
なんとなく思いついた言葉を返したところ、「やった」、紬は柔らかい笑顔でそう言った。一瞬、自分の言葉が本心から出たものなのではないかと勘違いしてしまった。
「どれにしようかな」
自販機の前で酒缶を見回している紬の横から小銭を投入し、レモンチューハイのボタンを押す。「あ、ずるい」、紬が言ったのと同時、三五〇ミリリットルの缶が音を立てて転がった。
大人はビールを美味しいと言うが、やはりその言葉は信用ならない。苦いだけならまだしも、あの独特な匂いはいつまで経っても受け入れられそうになかった。誤って飲んでしまったのは幼いころだったし、当時とは違う味の感じ方をするのかもしれないが、今はその冒険をするタイミングではないはずだ。
「私、これにする」
紬がボタンを押すと、ちょうどチューハイの真上からビール缶が落下してきた。チューハイのついでに、彼女のビール缶も一緒に取りだす。
「あら……? 紬ちゃんじゃない!」
顔を上げて一歩踏みだしたとき、横から甲高い声がした。何が起きたのか理解できず、一瞬、思考が停止する。咄嗟に二つの缶を背後に隠し、声のほうへ向き直った。
「わっ、叔母さん」
紬がやけに明るい声で言った。彼女の視線が下に落ちたり叔母を見上げたり、それから僕へ向けられたりしている。あちこち泳ぎ回っていた彼女の目には、微かな動揺の色が滲んでいた。
「紬ちゃんも旅行? しかも同じ旅館なんてすごい偶然ね! そちらは彼氏さん?」
「うん、そうなの」
紬の視線がこちらへ流れてきたから、変な声が漏れてしまいそうになった。
たしかに、付き合ってもいない異性と旅行に来ているなんて知られたらどんなことを言われるかわからない。「初めまして」、なんとか紡いだ言葉は、かろうじて声としてのかたちを取っているようだった。
「芳村詩摘です」
紬の叔母は僕の目をじっと見たあと、「まあ」、甲高い声で言った。中身の見えない視線に当てられて、身体が浮遊しているような感覚になっている。
「あなたたち、二人で来たの?」
「は、はい。そうです」
「あら。大丈夫なの?」
大丈夫、とは。僕が返答に迷っていると、横から「大丈夫だよー、心配しないで」、紬が明るい声で言った。
「そう。しっかりしなきゃダメよ。じゃああなた、紬ちゃんのこと、よろしくね」
紬の叔母の細まった目が、僕の顔から落下し、僕の腹辺りに向けられた。その視線は、後ろ、僕の手から熱を奪っていく酒缶にまで達しているような気がしてならなかった。体温を失った手には、すこしずつ痛みが募っていく。
僕の心配とは裏腹に、彼女はいくらかまとめて言葉を吐きだしたあと、「お母さんにもよろしくね」と言い残し、廊下の奥へ消えていってしまった。酒について言及されることはなかった。
「……もっと警戒すればよかった。前に会ったとき、叔母さんから旅行するって聞いたのに」
あの人は、紬の家庭環境のことを知っているのだろうか。さっきの様子だと気づいていないように思えるが、紬の母親も、娘を虐待しているような人間には見えなかった。第一印象で判断することの難しさが、紬をここまで追い詰める結果に繋がっているのだと思う。
「バレたかな、僕がお酒持ってたこと」
「うーん、どうだろうね」
「あの人は知らないの? 紬の、こと」
僕の質問は、余計な配慮に余計な気遣いが重なったせいで、明らかに言葉不足だった。紬は「私のこと?」と首を傾げたあと、自らの力で質問の意図にたどり着いたのか、「知らないと思うよ」、眉尻を下げて笑った。
「お母さん、ああいう性格だから。昔から、妹との仲もそんなにいいわけじゃないんだ」
「でも、姉妹でしょ? 気づかないものなのかな」
「連絡、取らないんだよ。だからふたりとも、お互いの現状を知らないの。普通の生活をしてるものだと思ってる。それに、叔母さんはいい人だよ。……まあ暗い話は忘れてさ。楽しく一杯やろうよ」
いい人だよ、の部分だけ声がすこし強かった。僕は決して紬の叔母を否定したかったわけではなくて、ただ、彼女を救えたかもしれない存在がどうしてこの惨状に気づけていないのかを知りたいだけだった。紬の回答は、心臓を覆うように広がった熱を冷ますのに不十分だった。
紬は僕の手からビールを受け取ると、「ほら、行こっ」、それだけ言って部屋のほうへ歩いていってしまった。
部屋に戻ると、彼女は「宴会の準備」と言い、リュックサックから大量のお菓子を取りだした。同じ日なのに、紬とスーパーで遭遇したことが遠い昔のできごとのように思えてくる。
「おつまみ、買っておいてよかったね」
「おつまみ……? チーズとかじゃないの? 普通さ」
意気揚々とチョコレートばかり並べる紬を見ていたら、そう口を挟まずにはいられなかった。レモンチューハイならまだしも、ビールとチョコレートが合うとはどうも考えがたい。
「私たちは子供だからさ。まだそういう大人のおつまみは早いよ」
「そもそも子供にはまだ早いけどね、お酒って」
「私はどうせ死ぬから関係ないよ。相対的に見たら成人だしね」
「言ってることがめちゃくちゃだよ」
机がお菓子に埋め尽くされたころ、彼女は「乾杯しよ」と弾んだ声で言った。促されるまま缶を手に取り、タブを引く。ぷしゅ、小気味いい音のあと、彼女のビール缶が勢いよく衝突してきた。
「はい、じゃあ、乾杯」
「力、強すぎ。こぼれたんだけど」
「詩摘くん。あのね、乾杯は『杯』を『乾かす』って書くから、一気に全部を飲み干さないとダメだよ」
「どこでそんな治安の悪いことを覚えたの?」
返答を終えるころには煽るみたいにビールを飲んでいたから、仕方なく僕も缶に口を付けてみることにした。一気に流し込んだアルコール溶液は喉に熱を残し、胃の中身を一気に冷却していく。口を離して一息吐いたとき、アルコールの突き刺さるような匂いに思わず咳き込んでしまった。紬の勢いになかなか追いつくことができない。
あれだけ自殺を阻止すると意気込んでいたのに、いつの間にか紬のペースに飲まれてしまっている。彼女との時間に心を躍らせ、普通に楽しんでいた。甘えてしまっている、と思った。
ここでアルコールに潰されてしまっては、何かよくないことが起こってしまうかもしれない。正気を失わないよう、少しずつ缶に口を付ける。反対に紬は何も考えていないのか、適当な話題を二、三個消費するころには早くも半分を飲みきっていたようだった。
「ビール、美味しいの?」
僕がそう訊いてみても紬は「わかんなーい」と笑うだけで、生産性のある回答が返ってくることはなかった。僕がビールの可否を知るのはもっと先のことらしい。「飲んでみる?」と上目遣いで聞いてくる彼女には「いらない」と返しておいた。
「詩摘くん、酔ってる?」
「酔ってない」
「じゃあ飲まなきゃ」
「あー、酔ってきたかも」
ぜったい、嘘。撥音に力を込めて紬が言う。嘘じゃないよと返す。そこで彼女はその話題に飽きたのか、今度は「リモコン取ってえ」と骨のない声で言った。彼女の要望どおりリモコンを手渡したものの、眉間に皺を寄せながら電源ボタンでない場所を押し続けていたため、リモコンを奪い、代わりにテレビの電源を入れてやった。
ぱっと点いたテレビからは見たことのない芸人の笑い声が聞こえてきて、それにつられてなのか、紬からも「あはは」と大きな笑い声が上がった。
「詩摘くんは恋愛とか、しないの?」
「なに、唐突に」
「ふふ」、紬から漏れた笑い声が芸人の声に重なって聞こえる。彼女は普段から饒舌だが、酒が入るとさらに口が回るようになるらしい。顔を赤くし始めてからというもの、口を閉じてから数秒もしないうちに新たな言葉を飛ばしてくる。
「どうなのかなーって」
「別に」
恋愛というのはしようと意気込んでするものではない、ような気がする。そんな疑念が浮かんできたが、おそらく彼女が求めているのは「誰が好き」とか「気になる人がいる」とか、そういう修学旅行の夜に盛り上がれるような話題なのだろう。
好きな女性。それを考えて最初に思い浮かぶのは、やっぱりというべきか、紬の顔だった。しかし、当然それは紬の他に女子と話していないから相対的に彼女のことが好きなだけで、恋愛的な好意なのかと訊かれればそれはよくわからない。どちらにせよ僕は、彼女への想いを認めるわけにはいかなかった。
自殺するまでにしたい100のこと、『恋人を作る』。互いに一線を越えて恋人関係になれば、彼女を自殺に大きく近づけることになってしまう。
「いないよ、好きな人も気になる人も」
結局僕はそう答えることしかできなかった。心の底がちくりと痛んだ。紬は間の抜けた声で「えー」と言った。
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